白熊と出会い

 その人は僕の様子を窺いながら、僕をどこかに連れていく。支えてもらえたおかげで、ゆっくりとではあるけれどなんとか歩けた。

 目的地はすぐ近くにあったようで、五分もしない内に、身を凍らせるほどに寒い外から、肩の力が抜けるほどに暖かな空間へと辿り着く。

 壁際に設けられたベンチに僕を座らせると、その人はどこかに行ってしまった。その背を目で追うような気力はなく、鞄を膝の上に置くと、壁にもたれてぼんやりと外を眺める。

 ──『洋食のイルカ』、向かいの店の閉じられた黒い扉には、白い文字でそう書かれてあり、ボール遊びをするシロイルカも描かれていた。

 イルカ……イルカと言えば水族館だけど、最後に行ったのはいつだろう。名字が変わってから、動物園に連れていかれたことはあるけれど、水族館はまだ行ってない。行きたいとも、思わないけれど。

 いつか見たイルカショーのイルカは、さて、何色だったのか。

 そんなことを考えていると、こちらに近付いてくる足音に気付いた。目を向ける気になれなくて、そのまま外を眺めていたら、膝に何か掛けられる。視線を落としたら、白熊柄のブランケットが、僕の膝や鞄を隠していた。


「洗濯したばかりのやつだから、安心して」


 そう言われてすぐ、首にマフラーを巻かれる。呼吸がしやすいように気を遣ってくれたのか、いやに優しい巻き方だった。


「しばらくここにいたらいいよ。この時間、店内で食べていく人いないから、ゆっくりできると思う」

「……」

「味噌汁やあったかいほうじ茶もあるけど、飲む?」

「……」


 無理に顔を上げ、その人を見た。

 何でこんなに親切にしてくれるのか。そんな疑問もあるし、訊かれたことに対する返事とか、礼とか、きちんと言いたかったからそうした。

 その人は無表情だった。

 伸びた前髪で、顔の左側は隠れてしまっているけれど、晒された右側には、何の感情もありはしない。向けられる視線に冷ややかさや迷惑そうな気配はなく、かといって心配しているような感じもない。

 ただ普通に僕を見て、対応しているだけ。──それにほんの少しだけ安心したのは、何でだろう。


「今はいい?」

「……お気持ちだけ」

「そう」


 その人はまた、僕から離れていく。おにぎりがたくさん並べられたショーケースの向こう側に行き、じっと外を見ていた。

 しばらくその人を眺めていたけれど、入試時間が気になって腕時計を見る。あと少しくらいなら平気そうだった。

 動き続ける時計の針を見つめながら、耳を澄ます。入り口は自動ドアで、誰も入ってこないけれど、外の雑音はいくつか耳に届いた。僕と同じ受験生達のものだろう。徐々に声は大きくなり、何となく外に目を向ける。

 丸まった背中の群れ、それは寒さのせいじゃない。不安そうな顔が見つめるその先には、単語帳やテキストがあった。

 そろそろ僕も群れに戻らないと。

 少し休めたおかげで、立ち上がっても特に問題はなかった。膝の上にあったブランケットをベンチに置き、マフラーを外そうとした所で声を掛けられる。


「巻いていきなよ。外は寒い」

「……でも」

「いいから」


 視線を向けると、その人の姿は消えていた。あれと思ったけれど、すぐにその人はショーケースの陰から出てきて、真っ直ぐに僕の元に来た。その手にはレジ袋がある。


「あの」

「お昼に食べたらいい」

「お金」

「気にしないでいいから」

「……」


 普通に気にする。そんなことをしてもらう理由がない。かといって上手な断り文句も思い浮かばず、じっとレジ袋を見ていたら、手を取られて、無理矢理渡された。


「うちのおにぎり、旨いから」

「……その、ありがとうございます」


 マフラー、必ず返しに来ますからと言ってその店を出ると、すぐに群れの中に入る。頭や足はもう、重くならなかった。

 群れと共に会場に行き、試験を受け、昼になる。午後も引き続き試験はあるから、試験会場の指定席でそのまま昼飯を食べた。

 元から弁当を持ってきていなかった。母さんもとうさんも妹の世話で大変だから、自分で用意すると事前に断っていたのだ。結局気分が悪くてそんな余裕なかったから、おにぎりをもらえて本当に助かった。

 ラップに包まれたおにぎりは二個。中身は分からないけれど、好き嫌いはそんなにないし、食欲も普通にあるから、一個目のラップを取り外す。

 一口食べた瞬間──好きだなと思った。

 しっとりと柔らかな食感、優しい米の甘みがあっという間に口内へ広がり、性急に二口目が欲しくなる。

 手の中のおにぎりは一瞬で姿を消し、迷いなく二個目のラップを外して食べた。一個目は具なしだったけれど、二個目は和風ツナのようで、醤油が染み込んだツナはこれまで食べた中でも一等旨く、手の中から消えてしまうと、その事実が受け入れられなくてしばらく呆然とした。

 おにぎりはもうない。

 レジ袋の中にも、どこにも。

 ──もっと食べたいのに。

 試験が終わったらすぐにでも行こうと思ったけれど、現金の持ち合わせがなく、唯一持っていた電子マネーの残額を思い出して頭を抱える。

 ついさっき、自販機でお茶を買ったら、予想していた額より少なかったみたいで、どうにか帰り賃を払えるくらいしかもう残っていなかった。いやそもそも、電子マネー対応している店なのかも知らない。

 せめてお礼と、おにぎりが美味しかったことを伝えに行こうかと思ったけれど、試験の終わりにスマホを見たら、ピザを頼んだからお疲れ様会をしないかって、本当に人鳥から誘われて、彼の家に急いで向かうことになった。

 試験の翌日は休み。

 借りたマフラーは夜の内に洗った。電子マネーもチャージして、貯めていた小遣いにも余裕がある。いくつかおにぎりを買わせてもらおう。

 それから……頂いたおにぎりのおかげで、午後の試験は午前の時よりも実力を出せたことを、本人に伝えられたらいいと思いながら、その店を目指した。

 店名はうっかり確認していなかったけれど、目印はある。確か──。


「『洋食のイルカ』従業員の、斑鳩いかるがだ」


 白熊さんの店のお向かいにある洋食屋さん。──僕の目の前に立っている、怖そうな坊主頭のおにいさんは、どうやらそこで働いているらしい。

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