ある日街の中

 中学二年生になった春、母さんは僕にある人達と会わせた。


 優しそうな顔のおじさんと、日本人形みたいな少し怖い感じのする女の子。いつも行く所より遥かに値段の高そうなレストランに連れて来られ、同じテーブルについたその二人を、これから家族になる人なんだよと、母さんは紹介してきた。


「最初は単なる仕事の取引相手だったんだけど、ちょっとした雑談でね、お互いの育児の悩みとか話し合うようになって、それで、それでね……この先の人生を支えてほしいし、支えていきたいなって、思うようになったの」


 ただただ嬉しそうな顔をする母さんというのは珍しかった。お笑い番組を一緒に観ていれば笑うけれど、大抵は疲れた顔か、些細なことで怒鳴ってきたのに。


「丙吾もさ、お父さん、欲しかったよね?」


 僕に父さんはいない。

 赤ん坊の頃の写真にもそれらしい人は写っていない。

 母さんは、どんな理由があったのか知らないけれど、一人で僕を産んで育てた。

 たまに憐れまれることはあっても、そのことでからかわれたり、陰口を叩かれたことはない。だからこれまで気にせず生活してきたし、欲しいだなんて思ったこともないのに。──『お父さん』が欲しかったのは、母さんだけ。

 よく行くファミレスで、幸せそうな家族連れと鉢合わせるたび、母さんがちらちらと彼らを見ていることにはとっくに気付いていた。


「僕は……」


 否定の言葉は喉の所で止まっていた。

 視線。

 笑みを浮かべながら否定を許さない母さんの鋭い目はもちろんとして、優しそうなおじさんの温かみに満ちた目もまた、僕に発言を躊躇させる。

 僕が本当に言いたいことを言えば、多分間違いなく、おじさんは傷つくだろうし、母さんからは少なからず恨まれるだろう。念願だったものを実の息子が拒否するわけだから。……母さんがどれだけの力を込めて、頬を叩いてくるのか、僕はよく知っている。そう思ったら、口を固く閉じて、曖昧に笑うしかなかった。

 こうして、僕にとうさんといもうとができ、名字が坂口から海豹になった。就学前のいもうとが、その名字で今まで書く練習をしてきたから、変えるのは可哀想だろうと母さんが提案して。将来的に坂口の方が画数少なくて楽だろうにと思うのは、アンゴという渾名に多少なりとも未練があるからなのか。


「丙吾君は本が好きなのかい?」

「それなりに」

「やっぱり、坂口安吾が好きなのかい?」

「文豪なら、織田作之助ですかね」

「……ちょっと知らないな。織田ということは、信長の親戚だったりするのかな」

「聞いたことはないですね」


 とうさんは見た目通りの優しい人だ。何かと良くしてくれる。高校も、好きな所に行ったらいいと言ってくれた。


「娘も可愛くて仕方ないが、息子も本当は欲しかったんだよ。君が成人したら、一緒にお酒を飲んでほしい」

「……はい」


 実の息子のように接してくれることを、本当なら感謝しなくてはいけないのに──とうさんと話していると、ほんの少しだけ、吐き気を覚えるのは何故だろう。

 僕は、父を知らない。

 欲しいと思ったこともない。

 いらない奇跡が起きて、優しいとうさんができても、あんまり嬉しいとは思えなくて、むしろ、そこまで関わりたくはなかった。

 優しい人なのは分かるけれど、それでも、心のどこかが拒否をする。何でこの人は何の抵抗もなく僕に歩み寄ってこれるのか。

 とうさんが話し掛けてくるたび、ついその優しさを拒むような態度を取ってしまい、淋しそうな顔を何度もさせてきた。罪悪感から余計に避ける。悪循環。

 わざと遅く帰るようになったのもこの頃からだ。図書館や公園で、怒られない程度に時間を潰してきた。

 なんか暗くなったねと言われるようになって、気付いた時には人が遠ざかっていた。傍に残ったのは、人鳥だけだ。

 人鳥にこう言われたことがある。


「おれ達さー、仲が良すぎる名前になったよねー」

「何が?」

「ほらほら、お互い動物の名前になったじゃん」

「あー、豹?」

「……そっちかー。うん、まあ、豹の方が強いしね」

「何言ってんの、ペンギン君」

「ペンペン! ……ペンギンってどう鳴くの?」

「知らん」


 変わらない態度で接してくれたのが、どれだけ呼吸を楽にしてくれたのか、人鳥は気付いているんだろうか。

 受験生になる頃、母さんのお腹にとうさんとの子供ができた。男の子でも、女の子でも、どっちでも嬉しいね、なんて、幸せそうに二人は話していた。その裏で、早く帰ってきて色々手伝ってよねと釘を刺される。あまりその通りにはできなくて、何度か叱られた。

 正直、受験勉強に身が入らないことも多々あったけれど、同じ高校を受ける人鳥に何かと助けてもらいながら、受験当日を迎える。


 朝から気分が悪かった。


 家族総出でその日は見送ってくれたのだ。眠たそうないもうと、お守りをくれたとうさん、年末に産まれたばかりの、半分血の繋がった妹、そして、疲労の滲んだ笑みを浮かべる母さん。

 赤ん坊の泣き声と共に、とうさんから激励の言葉を何度も掛けられた。

 君ならできる、今までの努力はきっと報われる、君が帰ってきたらどこかに食べに出掛けようか、なんて。

 人鳥とお疲れ様会するので遅くなります、とか適当なことを言って出発したけれど、徐々に頭や足が重くなり、満席状態の電車の中で立っていられなくて座り込んだら、知らない人に心配された。

 人鳥と会う予定なんて本当はない。彼は既に指定校推薦で合格していたから、自宅でのんびりしていたことだろう。

 ──幸せな家族の、温かな激励。

 普通は喜ぶべきなのに、どうしてこう、気分が悪くなるのか。受け入れようとしないのか。そうすれば全部楽になれるのに。

 人鳥と同じ高校に行きたいから、歯を食いしばって足を動かす。駅は出られた。商店街を歩けた。このまま真っ直ぐ進んでいけば……という所で、ふいに動けなくなる。

 灰色の空からはちょうど、雪が降ってきた。

 開始時刻には余裕がある。かなり早くに家を出たから。しゃがみこんで、じっとしていれば、その内良くなるはず。だから平気だ、何も問題はない。そんな風に思い込ませるたびに、気持ちはどんどん焦ってきて、呼吸が乱れていく。

 本当に、平気なのか。

 何度も何度も頭の中で問い掛ける。何に対しての平気かなのかも分からないまま、何度も。答えが出る気配はないし、気分もまるで良くならない。動け、動けと、丸めた拳で脛を殴っていると──ふいに背中を撫でられた。


「そこ、通行の邪魔」


 腕を取られて、無理矢理立たされる。急だったから思わず倒れそうになると、身体を支えられた。


「俺の店、ベンチあるからさ、そこで少し休みな」

「……」


 ちらりと相手の顔を見ようとして、よく見えなかった。その人の顔は、半分くらい黒い髪の毛で隠れてしまっていたから。

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