対面と勧誘
思わず、目を逸らす。──恥ずかしいな。
今まで隙あらば、白熊さんの隠された左目を見てきた。そこに綺麗な蝶がいると知ってからは、余計に気持ちが押さえられなくなった。
隠されていたら、気になるものだろう。
そんな風に開き直った感情ごと見透かされたみたいで、すごくその、恥ずかしい。
「どうしたの、あざらし君。目なんか逸らして」
「……すみません」
「何で?」
「……じろじろ見てしまい、その、不快な想いを」
「いいよ、別に。不快とか特にないよ。……元はと言えばさ、見てほしいからこうしたんだし」
え? と思わず視線を戻せば、左目を押さえていた白熊さんの手が、ゆっくりと前髪をずらしていた。
「しろ、くまさ」
呼び掛けてみたものの、次に何を言うべきかまるで頭になくて、目の前の光景を見てることしかできなかった。
ゆっくり、ゆっくり──蝶が現れる。
紅い色の蝶は、偶然見れたあの日と同じく、白熊さんの左目にいてくれた。瞬きをしても、何度繰り返しても、蝶は消えない。
じっくりと蝶を見れる。
手に持っていた白熊のぬいぐるみを、床にそっと置いて、正座したまま身体ごと白熊さんに向ける。
「俺はただ、見てもらえればそれで良かった。でも、逆に見てくれなくなって、だから隠した」
世間の目があるのも忘れてたよ、なんて呟きに、僕は返事もできずに蝶に見惚れた。
ほんのり煌めきを帯びた紅い蝶。眉毛の上辺りから、頬に掛けて、片羽を広げている。
「……この蝶、彫ってあるんですか」
蝶から目を逸らさずに訊ねてみた。白熊さんはじっとしたまま、そうだよと答えてくれる。
「従兄にね、彫ってもらった。彫り師なんだよ、うちの従兄。彫ったら何か変わるかもよって言われて、そうしたら本当にさ……変わった」
白熊さんの表情に変化はなかった。だけど、「変わった」の所で、白熊さんの声はそれまで以上に低くなっていた。
そこに、どんな感情があったのか。高校生になったばかりの僕にはまだ探れそうにない。──そんな余裕もない。
「すごい見てくるね、あざらし君。そんなに見たかったんだ」
「……はい」
「正直者だ。ねえ、知ってるかな、あざらし君。君はいつもね、何か言いたそうにして、口を噤んで、頭を少し揺らしながら、俺の左目を見てたんだよ。今はぴくりとも動かないね」
「すみ、ま」
「別にいいよ」
どれくらい、許されたのか。
白熊さんの紅い蝶は左目に留まり、羽ばたくこともなくいつまでもそこにいる。いっそ、触れようとすれば逃げるだろうか、なんてふざけたことを考えた頃に、疲れたと言って白熊さんは前髪を元に戻してしまった。
「ぁ……」
「また今度」
そう言って白熊さんはローテーブルの方に戻っていき、そこにある座椅子に腰掛ける。また今度があるのか。呆ける僕に、再開しようと白熊さんは呼び掛けてきたから、慌てて畳の上に置いておいた白熊のぬいぐるみを持ち直す。
窓に掲げてしばらくすると、サラサラサラ、と再び鉛筆の走る音が部屋に響いた。僕も白熊さんもしばらくは口を閉じていたけれど、ふいに、白熊さんの方から話し掛けてくる。
「午後もお店、開けた方がいいかな」
「いつもは開けてないんですか」
「十三時前には閉めてるんだ。残りは絵を描く時間に使ってる。でも今日、人がわりと来てたからさ、午後も営業した方がいいのかと思って」
「……してほしいと思っている人からすれば、嬉しいんじゃないですか」
「そうなんだ。あざらし君、放課後は暇?」
え? と振り向きそうになったら、そのままで聞いてと止められた。
「あざらし君、ほぼ毎日来てくれるくらいうちのおにぎり好きでしょ? それに、俺の左目に怯えないばかりか興味を持っている。そういう人これまでいなかったからさ、俺が絵を描いている間、店のこと任せたいなって」
「……」
「何かあれば呼んでよ、すぐ助けるから」
これ、バイトの勧誘か。……バイトか。
入学してすぐにバイトを始めたかったけれど、うち高校生は募集してないんだよねと、電話するたびに何度も言われてきた。
全戦全敗中、それがここに来て、勧誘。
ここで働けば、美味しいおにぎりと白熊に囲まれて、秘された蝶がすぐ傍に。
「……僕、高校生です」
「近所の学校の生徒だよね、その学ラン。あそこ、もしかしてバイト駄目?」
「平気です」
「他で働いてる?」
「いえ」
「ならさ、うちで働きなよ。君がいいな、俺」
「……」
後ろを向いていて、良かった。今は顔を見られたくない。
何でそう、昨日初めて会話したようなただの常連客に、そんな……恥ずかしい台詞を吐けるのか。
まだ無表情でいるのか、口元に笑みでも浮かべているのか。どんな顔をしているんだろう。
気になるけれど振り返らない。窓に掲げる白熊のぬいぐるみを見つめながら、返事をした。
「僕で、よければ」
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