壱
慣れない家庭と頼まれごと
──食事の時間がしんどい。
「おはよう丙吾」
「おはよう丙吾君」
「……おはよう」
母さん、とうさん、いもうと。
三人とも既に起きていて、トースト片手にテレビのニュースを観ている所だった。ダイニングに入ってすぐ、一斉に向けられた目は、いつものように居心地の悪さを覚える。
「……おはようございます」
睡眠欲とは違う理由で布団を恋しく思いながら、僕も席についた。隣に座るいもうとが凝視してくるから、一応会釈をしておいたけれど、何のリアクションもない。
いもうとは確か八歳だったはず。肩口で切り揃えられた黒髪、無表情とあって、日本人形に見つめられているような気分になる。未だにこのいもうとには慣れない。
「丙吾君、今朝はどうする? イチゴにするか、ブルーベリーにするか」
とうさんが僕に話し掛けると、いもうとの視線はテレビに戻った。
「急ぐので、そのままでいいです」
テーブルの端に置かれたポップアップトースターを無視して、残り少ない市販の八枚切りの食パンを二枚手に取り、適当に口へと運ぶ。
「それだけで足りるかい?」
「へいひへふ」
「そうか……」
どこか淋しそうなとうさんの顔に、いつものごとく必要もない罪悪感を覚えていると、気持ち大きな音と共にカップが置かれた。いつの間にか母さんが飲み物を用意してくれたらしい。今朝は牛乳だった。
「明日はラピュタパンにする? あんた、ラピュタ好きでしょ?」
「そうなのかい? とうさんもラピュタは好きだ! 早起きして作ってあげよう」
「私の分もお願いね」
「……私も」
「もちろん、皆の分をまとめて作るさ!」
母さんととうさんは笑い合い、いもうとは二人をじっと見ている。僕も僕で、仲の良さそうな家族三人をぼんやり眺めるだけ。
ラピュタは好きだし、ラピュタパンも気にならないといえば嘘になるけれど……。
「──明日は今日より早いと思うので、僕の分はいいですよ」
そんな風に断っていた。とうさんはまた淋しそうな顔をする。
頭では分かっている、歩み寄るべきだって。高校の学費や昼飯代だって出してもらってるし。……それでも。
「丙吾!」
「────!」
母さんが怒鳴るのと同時に、別の部屋から赤ん坊の泣き声がした。去年の暮れに産まれたばかりの、妹だ。
僕と、妹の泣き声がする方を交互に見た後、もう! と言って母さんは妹の元に向かった。
手に取った食パンを口内に詰め込んで、牛乳を流し込み、ごちそうさまと早口に言う。洗い物はしておくからととうさんに言われたから、お礼を口にして、逃げるようにダイニングを、そして家を出た。
◆◆◆
家から六駅離れた所にある高校。同じ学校の生徒やスーツ姿の社会人に紛れて改札を抜ける。
そうして向かう先は彼の店。『おにぎりの白熊堂』
徐々に近付いてくると、学ラン姿の二人組が店の中に入っていくのが見えた。うちの高校の人だろうけど、多分知らない人。その背に続いて入ろうとしたけれど……何かを蹴っ飛ばして、足が止まる。
視線を下に向ければ──覚えのある白熊のぬいぐるみが、静かに横たわっていた。
「……」
拾って、顔をじっくり見たけど、間違いない。昨日よりも汚れが酷くなっているけれど、白熊さんの白熊だ。
ありがとうございましたー、なんて声と共に、学ラン姿の二人組が出てくる。邪魔にならないように避けて、彼らの背中が見えなくなった頃、僕も中に入った。
壁際に設けられたベンチ、奥にはショーケースに並べられたおにぎりがあって、その上から顔を出す感じで、白熊さんは立っていた。
「いらっしゃ……あざらし君じゃん」
口元に笑みを浮かべて、白熊さんは僕を出迎えてくれる。昨日みたいな黒尽くめのラフな格好の上に、黒い無地のエプロンを身に付けていた。いつも通りの白熊さん。違うのは、向けられる笑み。普段は無表情に声を掛けてくるのに。昨日名乗り合ったからか。
……いや、ちょっと待って、あざらし君?
傍に寄ると、また顔に出ていたのか、すぐに白熊さんは僕の疑問に答えてくれた。
「海の豹と書いて、『あざらし』とも読むんでしょう? なら、君はあざらし君だ」
「はあ……」
そういえば、そうか。
珍しい名前だよな、くらいにしか思ってなかった。
「今日はどうする? わかめやピラフ、梅干し……は苦手かな」
「平気です。……あの、これ」
両手に抱えていた白熊のぬいぐるみを見せると、隠されていない白熊さんの右目が見開かれた。
落ちてた? と訊かれたから頷いたら、白熊さんは少しの間黙った後、小さく吐息を溢していた。
「洗って、てるてる坊主みたいにして干してたんだけど、駄目だったか」
手を差し出してきたから、白熊のぬいぐるみを渡したら、汚れも気にせず胸に抱いた。エプロンだからいいのかな。
「こうなると、ちょっと困るな」
軽く頭を掻く姿に、好奇心が顔を出す。
──見えるか。
たとえば髪の隙間から、紅い蝶の羽が少しでも。
そんなことを考えながらじっと見つめていたら、白熊さんの右目が僕を捉える。
「……」
「な、何か」
無言が続く。邪なことを考えていたのがバレたのか。目を逸らせずに見返していたら、あざらし君さ、と白熊さんから口を開いた。
「放課後、暇?」
「へ?」
「ちょっと頼みたいことがあるんだ。暇だったら、頼まれてほしい」
駄目かな、と顔を寄せられる。
蝶は見えない。見え……あ、ちょっとだけ見えた。羽の先。やっと見えた。髪の毛避けたいな、ちゃんと見たい。いや駄目か。そんなことしたらきっと出禁だ。でも、もっと見ていたいな、せっかく綺麗だから。
目を逸らせないまま──頷いた。
家に少しでも遅く帰れるなら、それでいい。
「ありがとう」
白熊さんは顔を引っ込め、後ろに棚があるのか、そこに持っていた白熊のぬいぐるみを置いた。
「店は開けとくから、普通に入ってきて」
そんな風に口を動かしながら、白熊さんの手は、レジ袋におにぎりを詰めていく。そうして告げられた金額は、おにぎりの数から考えると少ない気がした。
「あの」
「サービス。報酬の先払い」
「……はい」
レジ袋を受け取って、店を出て──そこで初めて、頼まれごとの内容を聞いてないことに気付いたけど、まあいいかと、学校に向かった。
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