空から落ちてきた白熊
放課後になり、僕の足は自然と、彼の店へと向いていた。
人鳥は部活に行ったし(確か将棋部)、他に一緒に帰るような友人はいないから、一人で。いっそ止めてくれる人がいたら良かったのかもしれない。
──蝶が、ずっと頭から離れなかった。
うっかり見てしまった紅い蝶。その後で目にした彼のはにかんだ表情も、何もかも頭にこびりついて……もう一度見てみたい、なんて、きっと失礼なことを考えている。冷やかしで行っていい場所じゃないのに。
「あれ、海豹?」
「海豹じゃん、一人?」
「帰りにこっちの道で会うの珍しいな」
たまたま遭遇したクラスメイト達に適当に挨拶をしながら、足を止めずに進んでいく。もう少しで着きそうだ。
登校中は駅から学校までの最短ルートを使い、放課後は遠回りになる道をわざと選んでいる。少しでも早く学校に行き、少しでも遅く家に帰りたいから。
彼の店には、登校中にしか通り掛からない。
朝に通る道で開いているのは、コンビニや弁当屋の他に、パン屋と彼の店しかなかった。ずっと米で育ってきた人間としては、おにぎりの店があると知れば立ち寄らずにはいられないし、美味しければ通いもする。
放課後になれば違う道を利用するから、彼の店が今の時間どうなっているかなんて、これまで知らなかったけれど──まさか、シャッターが閉まっているなんて。
おやつタイムを少し過ぎた現在、色んな店が建ち並ぶ通学路で、シャッターが閉まっている店は他にもあるけれど、目の前に建つ店もその内の一つだったとは。今も今で稼ぎ時だと思うんだけど。
営業時間はどこにも記されていない。シャッターにでかでかと、色褪せた青い字で『おにぎりの白熊堂』とあるだけだ。この店はそんな名前だったのか。今まで気にしてなかった。
言われてみると、レジの所に数体、白熊のぬいぐるみが置かれていた気がする。白熊が好きなのか。
──なんて考えていると、頭に柔らかな衝撃がきた。
痛いような、痛くないような、曖昧な感触。首を傾げながら当たった部位を撫で、周囲を見渡すと、すぐ傍にぬいぐるみが落ちていた。
僕の膝くらいの大きさがある、白熊のぬいぐるみ。
「──ごめん、当たった?」
「……っ!」
頭上から声を掛けられた。低い、優しげな声。見上げれば、店の二階にある窓から身を乗り出す彼と目が合った。
「すぐ取りに行くから、ちょっと待ってて」
返事をする前に彼は消える。蝶は、この位置からでは見えなかった。
五分も経たない内に、少し騒々しい音と共にシャッターが開いていく。完全に開く前に、慌ててぬいぐるみを拾い上げ、土汚れをできるだけ払い落としたけれど、元が白いせいか、ほんのり黒ずんでいた。
「お待たせ。ああ、拾ってくれたんだ」
シャッターが見えなくなる頃には、彼の姿も完全に見えて、颯爽と僕の目の前まで歩み寄り、両手を差し出してくる。
「ありがとう。大事な子なんだ」
「……」
拒む理由もないのですぐに手渡せば、言葉通り本当に大事な子のようで、彼は受け取るとそのまま胸に抱いていた。
彼の黒い長袖のティーシャツに沈み込む白熊。心なしか嬉しそうに見えるのは、気のせいか。
「……白熊、好きなんですね」
無意識にそう訊ねていた。何でそんなことを、とぼんやり思っていると、白熊だから、という彼からの返答があった。
……白熊だから?
はてなマークが顔に思いっきり出ていたのか、それとも声に出ていたのか、苦笑混じりに彼は告げる。
「──白熊
よろしくねと、彼の腕の中にいる白熊が、ぺこりと僕にお辞儀した。
「……海豹、です。海豹
「かいひょう? どんな字?」
「海に、動物の豹」
「へぇ、珍しい」
彼の店に通い始めて、一月経つかどうか。それで初めて、いつもより長く会話して、ついでに名前まで知ってしまった。
というか、白熊なのに何で紅い蝶のタトゥーなんだろう。……あ、ちょうじだから? よく分からないけれど。
「今朝のおにぎり、まだあるけど何か持っていく?」
「え?」
「この子のお礼、いやお詫びか」
「お構いなく」
「遠慮しなくていいから」
彼、もとい白熊さんはさっさと店内に入ってしまい、中で選んで、と言ってくれているが、それでもやっぱり遠慮してしまう。
かといって、明日以降の昼飯を考えると逃げることもできず、その場に立ち尽くしていると、待ちくたびれたのか白熊さんが店の外に出てきた。
その手に、膨らんだレジ袋を持って。
今朝の再現だ。
「適当に詰めた。食べ盛りだと思うし、ちゃんと食べるんだよ」
はい、とわりかし強引に渡されて、そのまま白熊さんは店内に引っ込む。気を付けてね、と言われたのと同時に、ゆっくりシャッターが降りてきた。
「……ありがとう、ございます」
それなりの音が響いている。声が届いていたかは分からないけれど、言わないよりはマシだろう。
袋の中を見たら、普段僕が買うよりも多くおにぎりが入っている。詰めすぎだろ、これ。一人では食べられそうにない。
人鳥の奴、勝ってるかなと思いながら、来た道を引き返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます