おにぎりの白熊堂

黒本聖南

左目の蝶が見えた

 春の温もりを帯びた風が吹くと、彼の前髪を荒々しく撫で上げ──鮮やかな紅い蝶が現れた。


 名も知らぬ彼は左目を隠している。

 全体的に中途半端な長さに伸びた黒髪は、これまで一度も彼の左目を見せてくれたことはなかったのに、僕の気持ちを察してくれたらしい風によって、見たかったものをついに見られた。

 ──大きな紅い蝶の片羽がそこにある。

 彫ったんだろうか。それともペイントか、シールか。派手だ、派手派手だ。派手で、でもすごく……綺麗だ。

 しばらく見惚れていたら、彼はさっさと前髪を直してしまい、蝶の片羽はまた隠れてしまった。


「あぁ……」


 思わず声を上げて、すぐに自分の口を手で塞いだ。もっと見ていたい気持ちがあるにしても、彼からすれば僕なんて、所詮はろくに会話したこともない──ただの客。秘された蝶を無遠慮に眺め続けるのは、許されていないのだ、きっと。

 頭一つ分大きな彼の顔を見上げると、ちょうど彼は僕にレジ袋を差し出してきた。会計を済ませた後、うっかり商品を受け取り忘れて店の外に出てしまい、それで彼はこうして僕を追ってきてくれたのだ。

 レジ袋を受け取れば、対面時間も終了だ。名残惜しいけれど、いつまでもここにはいられない。僕は学生で、早く学校に行かないと遅刻になる。

 ありがとうございます、と言いながら受け取り、後はこの場を去るのみ。背を向けようとした、その瞬間──。


「内緒にしてね」


 人差し指を口の前に翳し、はにかみながら彼は言う。どこかいたずらっ子じみたその顔には、ほんのり大人の色気、みたいなものも混ざっていて……僕は、無言で何度も頷くことしかできなかった。


◆◆◆


 昼休みになり、屋上近くの階段で昼飯を食っていると、友人の人鳥ひととりが遅れてやってきた。


「今日の何ー?」


 よほど急いでいたのか、人鳥の薄茶の髪は少し乱れていて、特に直すこともなく僕の隣に腰掛けながらそう訊ねてくる。


「はばほはへほ、ひゃーはんほはひほひ」

「何て?」


 明太子のおにぎりを食べながら言ったせいか、よく分からなかったらしい。見れば分かるだろうからと、朝に彼から受け取ったレジ袋を渡した。

 中には鯖・鮭・炒飯・炊き込みのおにぎりが入っている。

 サンキュと上機嫌で人鳥はレジ袋を手に取り、どれにしようか、なんて弾んだ声で言いながら、食べるおにぎりを選んでいた。

 口内のおにぎりを飲み込むと、学校に着いてから買ったお茶に手を伸ばしながら、人鳥に訊ねる。


「で、用事は?」


 人鳥とは同じクラス、昼休みになれば一緒にここで昼飯を食べているが、今日は人鳥が、部活の顧問から職員室に呼び出しを受けていて、一緒には来れなかった。


「あー……なんかね、ゴールデンウィークの後半にやる合宿に、参加するのかしないのかって、それ訊きたかったみたいだよ。するんだったらアレルギーの確認もしたかったんだって」

「へー。すんの?」

「しないよ。そこまでがっつりやりたくないもん。ゴールデンウィークは家でゴロゴロしてたい」


 人鳥が選んだのは鯖だった。

 おにぎりに巻かれたラップを丁寧に取り、そのまま人鳥はかぶりつく。一口が大きいなと思いながら、僕も残りを食べた。


「ほんと旨いよね、ここのおにぎり。いつもあんがと、海豹かいひょう。助かってるよ、いくらだった?」

「まだ残ってるし、後でいい」

「りょーかい」


 二個目に手を伸ばしながら、さてどれにしようかと迷った。人鳥が言った通り、彼の店──彼が店主を勤める手作りおにぎりの店は、どのおにぎりも優しい味わいで、初めて食べて以降、毎日通うようになったほど胃袋を掴まれた。

 正直、買ったおにぎりを一人で全部食べたいくらいだけれど、食べた分のお金を人鳥はきちんと払ってくれるし、何より、味の感想を話せる相手がいるのは嬉しい。

 残りの高校生活、ずっとこんな昼が続いていくんだろうな。


「そいでさ、今日はどうだったの?」

「何が?」

「何がってあれだよ。──店主さんの左目は見れたのかって。気になるっていつも言ってんじゃん」

「あー」


 そんなに言ってたのか、僕。

 確かに、気になって気になって気になって仕方なかったし、ついに今日、見ることはできた、できたけれども……。


『内緒にしてね』


 そう、言われている。

 いつも無表情の人なのに、珍しく笑みまで浮かべていた。それに──大人があんな顔するの、今まで見たことない。

 頭にこびりついて、しばらく忘れそうにないな。


「駄目だった」

「そっかー。まあ、通ってたらいつかチャンスもあるよ。大丈夫大丈夫!」

「んー」


 適当に返事をしつつ、あの時の彼の顔を思い出しながら、僕は鮭のおにぎりを手に取った。

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