第3-2話
女は僕を監禁した。時々かんしゃくを起こして僕を殴ったが、死に至らぬ無様なあざだけが増えていった。眠ることは許されない。僕は与えられた食事を取り、排泄するだけの一本の管になった。
女は『愛』という単語を多用した。考えたが、僕にはわからない。知らない言語で知らない数式を説明しろと言われているようなものだ。与えられたことのないものを望まれても、かなえてやれるはずもなく、何も生まれない時間を、女の嵐を、身体を丸めてただやり過ごすしかなかった。
ある夜明け、女はどこからかタトゥマシンを手に入れてきた。大げさなペンのようなそれは、万年筆のようにペン先にインクを付けて肌に絵を描く。女は震える手でマシンを握り、僕の身体のすき間を黒く塗りつぶした。
タトゥの痛みは、彫られる、というよりは、切られる傷みに似ている。針を必要以上に深く刺す女の技術にはあぶら汗をかかされた。途中、私にも彫ってと言われたが、頑として断った。誰かの思い出になるのは嫌だった。
僕のすき間が埋まると、女は自彫りをすると言い出した。自分で自分に彫ることだ。女が入れた墨はたったひと突きだったが、あまりの傷みに飛び上がったあげく、手元を狂わせて大きな怪我をした。その日、出血が止まらず仕事を休んだ女は、失敗した自彫りの仕上がりを嘆き、オーバードーズして倒れた。
「ねえ、ねえってば。にじ色のヘビが見えるの。怖い。お願い、ここにきて、優しくして」
ふと思う。あわれだと。同じ時間を過ごすほど、女が可哀想になった。逃げようと思えばいつでも逃げられたが、抵抗せず、動かない心とぴくりともしない身体を好きなようにさせた。殴られるたび、心の一部が死んでいく錯覚を味わった。ひとりでいるときより、ふたりでいるほうが寒かった。
女は吐しゃ物にまみれながら赤ん坊のように泣いている。わけのわからない言葉を叫び、悶え、のたうち回ったが、両手はずっと、僕に向かって伸びていた。
必死になって僕を求める女の顔を見た。僕の目に同情の色をくみ取った女は、息を飲み、力尽きたようにぱたりと手をおろした。
女はもう、僕を傷付けることは出来ないだろう。
「もう行くよ」
「やめてやめてやめて。お願い、行かないで」
女は立ちかけ、よろけて転んだ。驚いた飼い猫が走り去る。
「愛さなくていいから、ひとりにしないで」
「孤独どうしでは開いた穴はふさがらないんだよ。君は君を大切にしてくれる人を見つけて」
床をはいより、僕の足首を掴んだ。痩せた腕は、意外なほど握力を保っていた。
「裏切るの、殺してやる」
「ああ」
足を引き、ナイフを探した。シンクの中にあったそれを掴むと、女の元へ戻り、顔の横に突き刺した。あ然とする女の耳からファーストピアスを抜き、舌に乗せて飲み込んだ。マットレスに沈んだ刃先は、女の緊張かスプリングの振動で細かく揺れている。女は目を見開き、涙を溢れさせた。まるで僕に殺される、とでもいうように。この世界は、いつも僕を悪者にする。悲劇の女がふらりと立ち上がった。終演だ。
「君の怒りはどこへ行ったの?」
「そんなもの、とっくになくした。あなたの怒りが欲しかった。ねえ、私ね、針を使い回したの。私には、あなたの血が流れてるの」
「ならもっと大切にしてくれよ」
女は膝から崩れ落ち、喉が切れるような叫びをあげた。慟哭と化した逆鱗が、僕の胸に突き刺さる。女はただ、生きようとしていた。
玄関ドアが閉まる直前、飼い猫が小さく鳴いた。振り向くなと言われたような気がした。
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