第4-1話/僕は妻の台所に立つ

<表現注意/人身事故>


 知らぬ駅のホームに立ち、何度目かの電車を見送った。今、こうして、道に迷っているが、女の部屋を出たのは僕の選択だ。突き詰めれば、目の前の道はいつだってふたつしかない。一番線二番線。急行鈍行。上り下り。飛ぶか、飛ばないか。僕を監禁した女の叫び声が、僕の背を掴む。いっそ押して欲しいと願うのに、点字の川は対岸が見えない。


 回送電車が走り抜けると、向かいのホームに、年老いた女が現れた。さっきまではいなかったような気がするが、ただ立つだけのその女は何年も前からそこにいたような存在感を放ち、しかしまわりにいる人間はチラとも女を見ない。何の変哲もないホームに、別世界の女をコラージュしたようで、そこだけが不自然だった。


 線路を挟み、根比べのような時間を過ごした。一方的なことだが、途方もない時間を持て余す僕は、いくらでも付き合えた。僕を不審に思う目はあったと思う。しかし先に動いたのは女だった。最終電車の到着を知らせるアナウンスが鳴り、静かに目を開けたのだ。女はごく薄く化粧をしていた。そして黒いワンピースは喪服だと気付く。女も自分が入る穴を掘っているのかもしれない。

 女側の線路の先から、カーブを曲がり直線に入った電車が現れた。三、二、一、その瞬間、地蔵のようだった女の、満たされた表情を見た。


 突如、警笛が炸裂した。心臓が縮こまり、吹っ飛ばされるような轟音に思わず後ずさった。そして何かに、何かが、確実にぶつかった音が、鼓膜に張り付いた。最後に耳に残ったのは悲鳴。残像は、赤。緊急停止した電車の横っ面には、ハケで横にはいたような血が付き、泡立ち、重力に負けてつうと下にたれていた。


 向かいのホームに立つ女と、目を見合わせた。僕たちは同じ顔をしていたと思う。女は右足を踏み出したままの体制で固まっていた。踏切にいたらしい、どこかの誰かに先を越されたのだ。


 つかの間の静寂。そして、僕は笑った。女が笑ったからだ。僕は泣いた。女が泣いたから。真っ青になった駅員が飛んできて、しっかりしろと僕の肩を強く掴んだ。向かいの女も似たような状況で、貸し出しの車椅子に座らされている。医務室に連れていかれ、簡易ベッドに寝かされた。パーティション越しだと、女の声は、笑い声か泣き声か判別できず、カーテンの隙間からは駅員が心配そうにこちらを見ていた。女は泣きながら笑っているのかもしれない。そして、消え入るような声で、しかしはっきりと、もういいよ、と言った。それは諦めだろうか、許しの言葉かもしれない。もしくは絶望か、永遠に動けない、鬼のいないかくれんぼ。



「嬢ちゃん」


 パーティションの向こうから、リンゴをどうぞ、と言わせたくなるようなしわがれ声が僕に囁いた。


「不安がらなくていいよ。もともとあたしたちは死体の山の上を歩いてるんだ。今日も明日も人が死ぬ。怖いもんか」


 空調に負けるほどの、ごくささやかな声量だが、それでもはっきりと僕の耳に届いた。


「あなたは明日死ぬ?」

「いいや。立てるかい?」

「うん」

「こっちへきて、手を引っ張っておくれ。うちで何か食わしてあげようね」

「食欲なんかないよ」

「若者ってのは、いつも腹をすかせてるもんなんだよ。においを嗅げば、腹が減る。さ、早く起こしておくれ。歩くのはひとりでできるから」


 パーティションを開ける。ろう人形のように横たわる女が、僕を見て手招きした。


「勝手に帰っていいのかな?」

「仕事が減ったくらいにしか思われないさ」


 背を押すようにして上体を助け起こした。ベッドを降りてからは思ったよりしっかりした足取りで僕を先導し、医務室を出て、駅員室を突っ切って改札口に出た。バタバタする駅員を横目に堂々と歩く。誰の目にも止まらなかった。


「嬢ちゃん、おうちの人は?」

「大丈夫」


 線路沿いの道を歩く。ホームはブルーシートでおおわれていた。線路を上から照らす真っ白なライトは、場違いに明るい。

 女の隣をゆっくりと歩いた。歩幅はじれったいほど小さいが、急ぐ理由もない。長く緩い坂道で僕の息が切れても、女は疲れた様子もなく歩き続けた。

 どれくらい歩き続けただろう。街灯が減っていき、ついに真っ暗になったと思ったら、ぽつりと平屋が現れた。鍵のかかっていない引き戸を開け、ささくれた畳の部屋に上がると、女は仏壇に線香をやった。

 

「亭主の法事だったんだ」

「愛してたの?」

「ああ?」


 女はぽかんとした。そして僕がふざけていないと知ると、おおぐちを開けて笑った。


「ああ、おかしい。お嬢さん、可愛いねえ」


 馬鹿にされるようなことを言ったつもりはなかった。笑いの発作がおさまると、女は粘つくような笑みを見せた。声といい顔といい、その手の妖怪を思い起こさせた。千年生きたと言われても信じられる。


「亭主を殺したのはあたしさ」


 女は僕の反応を楽しみにしたが、予想の範ちゅうでは驚きもしない。老人に恥をかかせてはいけないと、言葉を探していると、ふいに醤油と砂糖を煮詰めたような匂いが漂ってきた。蓄積され、染みついた人の生活の匂いだ。でどころを見やると、和室と土間をへだてるすりガラスに黒いシルエットが浮かび上がっていた。奧に誰かいるのかと思ったが、それはよく見れば僕自身の影で、実際、僕の身体は、隙間なく真っ黒だった。女は妖怪などではない。長く生きた、ただの人間だ。僕もそう。もしくは、それに類似するもの。


 もういいかい。もういいよ。

 裂けたあなは、限界だった。


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