第3-1話/ソープ嬢は僕を笑わない

 タクシードライバーは、空港に着くと旅券の手配を代行し、ゲートまで僕を送り届けた。車を拾ったとき、女がそういう約束で余分な金を握らせたのだろう。ボディチェックを抜け、人に流されながら後ろを振り向くと、もう、ドライバーはいなくなっていた。白いオーロラも、気ままな作曲家も、全てが幻に思えた。

 飛行機に乗り、背もたれの動かないシートに収まった。行き先を告げるアナウンスが、僕を途方に暮れさせる。来た場所に戻されても、行くところがなかった。帰る場所も。



「ねえ、頭だいじょうぶ?」


 透き通るような声が、突然僕を斬りつけた。他人からよくそう思われることは知っている。だが、たまたま公共交通機関で隣り合った女に面と向かって言われたことは初めてで、油断していた僕の心臓は痛いほどよじれた。


「血が出てる。床に垂れてる」


 はっとして足もとを見ると、点々と僕の赤が付着していた。思い当たる節があり、耳に手を当てると、案の定、低温火傷した皮膚から出血していた。耳から流れた血があごまで伝い、それを頭部からの出血だと勘違いされたらしかった。


「ああ、ピアスが裂けたのね。これ使って」


 女がハンカチーフを差し出した。断るより早く、女が僕の顔を拭った。繊細なレースは端からじわりと染まってしまい、返せなくなった。これから数時間のフライトが待っている。他人と関わりができたことに苛立ちを感じながら、ハンカチを受け取った。繊維にしみた甘い香水を感じた瞬間、冷や汗が出て、強烈な吐き気がこみ上げた。いっそ嘔吐してしまいたいとえずくのに何も出ず、せめて叫び声をこらえた。


「痛むのね」


 女は座席の間を隔てるひじ掛けを上げ、僕の頭を引き寄せると、膝を貸した。血がめぐり、視界がさだまってくる。女の肌は僕の熱を吸い取ってくれた。落ち着きを取り戻し、起き上がろうとしたが、離陸するまではとそのままの体制を強いられた。女は僕の髪をすき、ときどきピアスの血を拭いた。


「ピアスのあな、すごく大きいね。どこかの民族みたい。どうやってやったの?」

「少しずつ軸の太いピアスに付け替えるんだ」

「へえ、煙草くらいなら余裕で入りそう」

「何でも入るよ」

「指、入れてみていい?」


 女は少しも躊躇わず、血の付いた耳に触れた。大きなピアスを入れないと無様にたれさがるだけの皮膚をつまみ、やわらかいと言って笑った。女の耳は傷ひとつない。


 だらだらと走っていた飛行機が、突然、気が触れたようにスピードを上げ、滑るように離陸した。僕は座席に座り直し、行きに見逃した空の景色を眺め、感動を待った。


「タトゥ、全身に入ってるの?」

「背中と右足はまだ少しあいてる」

「見せてと言ったら、嫌な気分になる?」

「別に」


 女に近い方の腕をまくり、差し出した。


「私も憧れたことがあるの。でも、仕事で不都合があって、諦めちゃった」

「タトゥを入れられない理由がある人は、環境に恵まれてる。職場に感謝した方がいい」

「転職しちゃえ、とか言わないのね」

「こんなもののために人生を変える必要はないよ。ごめん、少し、眠ってもいいかな」


 吐き気はなくなったが、頭が痛かった。おしゃべりも苦手だった。


「やだ、もっと話したい。でも、後でお茶に付き合ってくれるなら、大人しくしてる」

「君って強引なんだ」

「おやすみなさい」


 女は僕の頬に触れた。熱いような冷たいような指だった。眠りに落ちる直前、女の顔が猫に似ていると思った。閉じたまぶたにくちびるが降りてきた気がする。どこから夢かは分からない。



 ◆



「ニャー」


 ぼやける視界に四つの目。ひとりと一匹が、僕の上に乗っている。広いリビングに敷きつめられた毛足の長いラグは、僕に夢を見る夢を見せた。壁掛けの時計は五時を指しているが、朝か夕かはわからない。ここは女が暮らす部屋。飛行機で眠る前は、帰国したらカフェでお茶、という話だったはずが、認識の違いがあったらしい。


「起きて」

「帰った方がいい?」

「好きなだけここにいていい。でもひとつだけお願いがあるの」


 そう言って女は僕の手に何かを押しつけた。見れば新品のピアッサーだ。ホチキスに似たそれを耳たぶに挟めば、バネの力であなが開き、内蔵のピアスが装着される。初めてなら心の準備がいるだろうが、作業自体はほんの一瞬だ。


「座って。髪を結んで。どの辺に開けたい?」

「任せる」


 まずは右から、耳たぶの真ん中を狙った。裸の耳はわずかなうぶ毛に包まれ、高級な桃を彷彿とさせた。カウントダウンはしなかった。ガチャリと大げさな音がして、女が顔をしかめる。目尻ににじむ涙を飼い猫が舐めた。時間が経つと痛みの輪郭が際立ち、冷静になれば二度目の踏ん切りがつきにくくなる。混乱している間にあごを持って逆を向かせ、勢いのまま左も済ませた。


「終わったよ」

「なんだか、処女を奪われた気分」


 そう言って女は僕を押し倒した。冷たいくちびるが振ってくる。差し込まれる舌を吸うと、女の息が熱くなった。


「僕はセックスできないんだ」


 女の体温はどんどん上がっていく。頬に触れるものがあり、キスかと思えば涙だった。顔をくしゃくしゃにして泣いていた。慰め方を知らない僕の手は、女の背のあたりでさまようばかりだ。


「もっとたくさんピアスを開けて、身体中にタトゥを入れたら、私も変われる?」

「変わりたいなら、朝起きて夜眠ればいい。それから毎日、三食食べる。その綺麗な身体を傷付ける必要はないよ」

「馬鹿にしないで」


 女は着ているものを全て脱ぎ、僕の腹にまたがった。しばらく玩具を求める女児のように振る舞い、望みが叶わぬと知ると僕の頬を強く張った。女がしゃくり上げるたび、何かしらの汁で触れ合う肌がぬめった。不快な感覚から逃れようと身体をよじると、女の指が僕の中に入ってきた。


「僕に何を求めてるの」

「どうしてひとりで傷付こうとするの?」

「誤解だよ」

「身体中、傷だらけじゃない。どうしてこんなことするの」

「君みたいな子を遠ざけるためだよ。退け」


 女の顔がざっと青くなり、拳が振ってきた。下唇に刺さるピアスのピンが歯ぐきに当たり、血の味が広がる。顔に似合わず、暴力を振るう側の人間らしい。赤を見て煽られたのか、降り注ぐ暴力に徐々に体重が乗ってきた。流れ込んできた鼻血を吐く。女の衝動は止まらない。


 僕は、世界に、期待した。首に手がかかり、じわじわ絞められていく。どこで知ったのか、重ねた親指は正確に急所を押してくれる。少し上を向き、肺をしぼるイメージで、細く長く息を吐いた。こめかみのあたりが痺れ出す。頭の中でハチが飛び回っている。耳が詰まり、音が遠くなる。痺れが頬まで広がると、もう苦しくはない。それでも反射で涙がつたうのは、愛しくも無様な生命力、僕はそれを手放したい。女の燃えるような瞳には死にかけの僕がうつっている。その奧に何かが見えそうで、じっと目をこらした。

 事の一秒前、女が過呼吸を起こして引っくり返り、僕はむせ返った。世界はまたしても僕を裏切り、女は僕にしがみついた。


「私を愛して」


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