第2-2話

 いつしかオーロラは消えてしまい、夜空の観測者たちもいなくなった。アウトドア用のイスだけが、溶けない湖の上に点々と残されている。


「坊や、帰りましょう。ウォッカを飲んだ方がいいわ。可愛いお耳が真っ赤よ」

「低温火傷したみたい」

「難しい言葉を知ってるのねえ。熱いシャワーを浴びれば大丈夫よ。仕上げに素敵な歌をそそいであげるから」

「そういえばあなた、作曲家って言ってた?」

「ええ、この歌、知ってる?」


 女は古いジュブナイル映画の主題歌を口ずさみながら、ゲストハウスへ向かって歩き出した。ささやかでハスキーな歌声は、氷の道を踏みしめる音によく似ていた。


「知ってるよ。日本でも有名な映画の曲だ」

「この曲はね、本当は歌詞を付ける予定ではなかったの。プロデューサーが公開直前で歌にしようって言い出してね。ティザーを打っちゃった後だったし、もう、みんな大慌て。リリックを書いて、アーティストを探して、もちろん音もとり直して。最後の一週間は、寝た記憶がないわ。一生分のコーヒーを飲んだの」


 楽しそうに仕事の話をする女は誇らしげだった。まるで遠足の思い出を語る少女のような目をしていたのに、ふっと表情が曇り、痛みに耐えるような顔をした。


「あれはあたしの曲なのよ」


 映画のエンドクレジットに流れる作曲者の名前は、男性のものだったと記憶している。歌を歌ったのも、作詞もその歌手だったから覚えていた。何年も前に、撃たれて死んだ。


「坊や、どうか自分を愛してあげて。悲しみは耐えなくていい。絶望は撃ち殺していい。諦めないで、抵抗して。自分のために、撃鉄を下げていて。いつでも引き金を引けるように」


 女は僕の正面に立ち、二本指をそろえ、銃を撃つジェスチャーをした。その銃口は僕の心臓を正確にとらえている。


「あなたの怒りはどこへ行ったの?」

「たった今、坊やの胸に撃ち込んだわ。その弾丸が、あたしの逆鱗よ」


 女は車道に飛び出ると、仮眠中のタクシーを叩き起こし、抗議するドライバーの手に何かを握らせると、僕を押し込んでドアを閉めた。


「さよなら坊や。あたしの白いオーロラ」


 ウインドウ越しにキスを受け、車はすぐに走り出した。ラジオから流れる知らない曲は、愛と平和を歌っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る