第2-1話/作曲家は僕に銃口を向ける

 粘り強く押し寄せる波をどれだけ眺めても、僕の感情は動かなかった。海とは縁がないらしい。ここに着く前、電車の窓から畑の向こうにそびえる山を見た。一度は人を埋めようとした場所に自分の穴を掘りに行くのは滑稽だろうか。砂に足を取られながら、海を後にした。



「坊や」


 波の音が聞こえなくなったころ、ハスキー、というよりほとんど酒焼けしたような声をかけられた。振り向くと、海沿いの道の真ん中に、黒人の女が立っていた。アフロが似合う女を見たのは初めてだが、寂れた田舎の背景と馴染まず、合成写真を見ているようだった。チューブトップは豊かなバストを、レザーのスキニーは形のいいふくらはぎをぴっちりと包んでいる。女は僕を見て肩をすくめた。


「キャリーが置き去りよ」


 女の手には見覚えのある、かつ二度と見たくなかったキャリーケースがある。忘れ物ではない。死体を運ぶという役目を終えた、ただのゴミだ。


「もしかしてわざとだった? 顔に似合わず、詩的なことするのねえ」

「いえ、すみません」

「こういうときは、ありがとうって言うのよ。はい、どういたしまして。このキャリー、大きさの割りに軽いわね。旅行ってナリには見えないけど、どこへ行くの?」

「山」

「こんなに美しい海があるっていうのに?」

「死にたいんだ」

「パーフェクト」


 女は指を鳴らし、嬉しくてたまらないといった様子で歯をむき出して笑った。


「坊や、あたしに付き合いなさい。偉大な作曲家の付き人にしてあげる。音楽の教科書に載れるわよ」

「もう、限界なんだ。とっくに全て終わらせるつもりだったのに」

「おばかさん。キャリーケースってのはね、旅に行くために使う物なのよ」


 女の目が光り、言葉を失った。死体遺棄を見られたらしい。


「さ、行くわよ」

「どこへ」

「ここじゃないどこか」


 ムスクの残り香、立ち尽くす僕を置いて歩き出した。女は手ぶらだった。しなやかに歩く後ろ姿には過不足がない。


「早く来なさいよ。日本は湿度が高すぎる。旅をしながら、死に場所を見つければいい」

「パスポートなんか持ってない」

「さっき言ったこと、もう忘れたの? キャリーは旅の為にあるの。ひっくり返してごらんなさい」


 言われるままキャリーケースを調べると、メッシュの内ポケットから冗談のように死んだ男のパスポートが出てきた。女の濃く長いまつげからウインクが飛んできて、くらりと目まいがした。

 

「ユアウェルカム。で、空港はどっち?」



 電車に乗り来た道を戻った。海が遠ざかるにつれ人が増え、つまり好奇の目が増えた。僕たちは隣り合って座席に収まり、黙って空港を目指した。女など、露骨な視線に笑顔で手を振る始末だった。僕は下を向き、ささくれを噛み続けた。



「日本人はタトゥやボディピアスに抵抗があるって聞いたことがあるけど、そんな身体で生きにくくないの?」


 空港まであと十分、ずっと黙っていた女は長い足を組み替え、カラリとそう言った。


「車だって部品が足りなきゃ走れないだろ」

「若いのに苦労してるのねえ。そのうち受け入れられるようになるわよ」

「冗談じゃない。もし世界がすり寄ってきたら、腕を切り落としてファッションだって主張してやる」

「極端ね。そのシルクみたいな黒髪を脱色すればいいじゃない」

「そんなの人の領域だ」

「興味深いこと言うのねえ」


 でも血は赤いよ。その言葉は到着を知らせるアナウンスにかき消された。

 下車に向けざわつき始めた車内を見渡すと、母親に抱かれる小さな子供と目が合った。黒目がちな目で、僕の顔を不思議そうに、じっと見ている。


「僕は一体、何に見える?」

「ん? 少なくとも堅気には見えないわね」

「あなたには聞いてない」


 女は気を悪くしたふうでもなく片方の眉を上げ、先に電車からおりてしまった。芸を披露するように手を振る子供を無視し、空のキャリーケースを荷台からおろした。


 空港にいる人々は皆、早足で歩く。向かいから突進してきたスーツの男と派手にぶつかり、尻もちをついた。その拍子に、ピアスがひとつ外れてしまった。突然身体の一部を失った心細さにぼう然とし、空港中を歩き回る女を馬鹿みたいに追いかけた。

 訳も分からぬまま飛行機に乗り込むと、口を開く前に女が座席のスイッチに手を伸ばし、僕のシートをフルフラットにした。最後に寝たのは二日前だ。その間に自殺未遂と遺棄を含む死体損壊をして今、ここにいる。何一つ聞けないまま失神したように眠ってしまい、女に起こされたときにはもう、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。



 ◆



 星の張り付く夜空、果てのない永久凍土には犬の遠吠えが響く。


「坊や、ご感想は?」

「実物より、ポストカードの方が綺麗だ」


 オーロラは白い。冬の夜に吐く息に似ている。ずっと勘違いをしていたが、あの独特なグリーンは撮影でしか発色しないという。夜空に頼りなく浮かぶ、ぼんやりとした白いもや、それがオーロラの本当の姿だった。


「勝手に期待されて勝手にがっかりされるなんて、オーロラは可哀想だ」

「そんなことないわ。自分が自分を認めてやらないで、誰がありのままを愛してくれるっていうのよ」

「いわれのない絶望を押しつけられるなら、誰にも気付かれない方がましだ」

「否定するわ。例えばあたしはあたしの才能を愛した。他人からも愛されたくて、世に出した。どうなったと思う? 奪われ、蹂躙じゅうりんされ、消費された。それなら胸にしまいこんだまま方がよかった? いいえ、坊や、人はひとりでは生きられないのよ」

「本当の姿を、知ってもらえなくても?」

「誤解されることと嘘をつくことは違う。二面性があっても、本質はひとつしかないのよ。白いオーロラの方が好きだって人もいるわ」

「あなたはどうなの」

「やっぱりイメージ通りの、あのグリーンの方が美しいわねえ」

「口ばっかりじゃないか」

「価値は美しさに付くと思う?」

「それこそ個人の好みだろう」

「坊や、あなたを美しい思うわ」

「アメリカン」

「ダア?」


 女は泣いていた。声を出さず、息すら震わせず、ただ涙を流し続けていた。頬を伝う涙には美しくないオーロラが溶けている。あごの先に溜まり、今まさに落ちそうなしずくから、なぜか僕は目が離せないでいた。


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