第84話 有言実行

 非常にまずい事になってしまった。


 目の前には何をするか分からない一織、そして背後には何を考えているか分からない母親たち。紅葉さんは娘の唇が奪われる様を一目見たくて仕方ないのか「ぶちかませー」と囃し立ててきた。ぶちかませと言われてぶちかますほど俺は肝が据わっていないし、何より恥ずかしすぎる。親の前でキスをするのは結婚式が最初で最後でありたいと思っているんだ。気が早いのは分かっているけど。


「キスはしないですから! 紅葉さんは諦めて下さい」

「ぶー、ぶー」


 真顔で抗議してくる紅葉さんが色々な意味で怖すぎる。多分俺はいつになってもこの人に慣れる事はないんだろうな。


「ところで一織、これって何の出し物なんだ? 一織しかいないみたいだけど」


 教室の中はがらんとしていて、何か展示物がある訳でもなければ飲食物を提供している訳でもない。ただ一織がそこにいるだけだ。


「何も知らずに来たのかい?」

「そりゃパンフレットに名前しか書いてないんだもん」


 『カフェ古林』はまだ飲食店だという事は分かるけど、『立華一織』は完全に謎だ。そして実際に来てみてもこれから何が始まるのか全く分からない。


「むう……その辺りボクは何もさせて貰えなかったからね。全員が関わる出し物の方がいいんじゃないかと言っても却下されてしまったし」

「そうだったんだ。一織が言えば何でも通るって訳じゃないんだね」


 雀桜での一織の立ち位置を考えれば、それくらいの特権があってもおかしくないと思っていた。


「寧ろその逆さ。どうか私達に一日だけの夢を、と泣き付かれてしまってね。まともに話し合いにも参加していないんだ」

「あー……それは何となく想像つくかも」

「それで皆が楽しんでくれるなら、ボクは構わないのだけどね」


 口ではそういうけど一織の表情はどこか寂しそうだった。ただのクラスの一員として、皆に混ざって何かをやりたかったんだろうなあ。


「それで、ここが何をする所かと言うとだね。簡単に言ってしまえば『撮影スタジオ』なんだ。ボクが衣装を着て、一緒に写真を撮る。ある程度ポーズやシチュエーションのリクエストも出来る。そんな感じさ」


 いつでもリクエストし放題の夏樹には退屈かもしれないね、と一織は不敵に笑った。それを見て紅葉さんが「まあ」と何かを悟ったような声をあげる。


 …………今、物凄い勘違いをされたような気がするんだが気のせいか? 俺達は普段そんな事は全くしていないんだが。


「それだったら四人で写真撮りませんか? こんな機会滅多にないですし」


 何とも平和な提案をしたのはうちの母だ。


「そうしよう。ここにスマホをセットすればいいの?」


 キスは恥ずかしいが写真は撮りたい。親が一緒なのは正直微妙だけど、大人になったらこういう写真の方が見返してて面白いんだろうなという予感もした。一織と二人の写真はこれからも沢山撮れる訳だし。


「そのスタンドにセットしてくれればシャッターはリモコンで切れるようになっているよ。衣装はどうするんだい? 色々揃っているけど」

「制服でいいんじゃない? 学祭っぽいし」

「そういう事なら黒板の前で撮ろうか。加工しやすいようにホワイトバックを用意してあるけど、こっちの方が高校生らしいしね」


 俺と一織を中心にして、黒板の前に四人で並ぶ。乾いたシャッター音が二度、教室に響いた。


「わ、いい写真ねえこれ。夏樹、あとで私にも送って頂戴」

「本当。一織もお願いね」


 撮った写真を見て俺達より親の方がテンションが上がっていた。四人並んだだけの何の変哲もない集合写真だったけど、子供と一緒の写真というだけで貴重なのかもしれない。


「あともつかえてるし出ましょうか。皆を待たせたら申し訳ないし」


 二人が扉に向かって歩いていく。もう少し一織と話したいけど、確かに二人の言う通り迷惑になる。あとをついていこうとして────後ろから手首を掴まれる。


「ん、どうかし────」


 ────柔らかな感触がいきなり口を塞いできた。気が付けば一織の顔が目の前にあって、キスしてるんだと気が付いた。


 一織はゆっくりと顔を離すと、唇の前に人差し指を立てた。しー。声にならない声が聞こえてくる。俺が茫然としていると、一織は俺の背中を押して二人に合流させた。


「…………」


 教室から出ると、すれ違うように雀桜生二人組が教室の中に入っていく。今、一体何が起きたんだ。


 いつの間にか母親達はどこかに行っていた。一緒に色々見て回ると言っていた気もするけど記憶がない。ぼーっとしながら廊下を歩いていると、スマホがルインの着信を告げた。身体に染み付いた動作でメッセージを確認する。


『誓いのキスはお気に召したかい?』


 声が出そうだった。俺の彼女がかっこよすぎて平静を保っていられない。何とか廊下の隅に移動すると、叫び出したい衝動を必死に抑えつけた。

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