第81話 大人の世界

「ほんっっっっとうに申し訳ありませんでした!」


 母の手が俺の後頭部をむりやり抑えつけ、俺は思い切り頭を下げる格好になった。どうして俺が頭を下げなきゃいけないんだ。いや、良くない事をしてしまった自覚はあるけども。


「お二人とも頭を上げて下さいな。周りの目もありますから」


 頭の上から紅葉さんの真っ当な意見が降ってくる。どうしてこの人はこんなマトモな感覚を持ちながら、あんな変な事を言うんだろう。俺はこれから先この人と上手くやっていけるのか。今の所、自信はない。


「本当に申し訳ありませんでした……」


 後頭部の手が離れたので頭を上げると、母親がもう一度小さく頭を下げた。親が頭を下げている姿を見るのはあまりいいものじゃない。それが俺のせいなら尚更だった。そんな母親の姿を見下ろす事に耐えられず、気が付けば俺も頭を下げていた。


「それで夏樹、どうしてあんな事をしたの。この方とお知り合いなの?」


 頭を上げた母が俺をきつく睨む。どう言ったものか悩んでいると、紅葉さんが口を開いた。


「申し遅れました。立華一織の母の紅葉と申します」

「ええっ!? 一織ちゃんのお母様ですか!?」


 母が跳びあがる。そんな母の様子を見て、紅葉さんは口元を僅かに緩めた。


「ですから、何も気にする必要はありませんよ。私と夏樹さんはですから…………ねえ?」


 日本刀のような鋭い視線に貫かれ、俺はぶんぶんと首を縦に振った。蛇に睨まれた蛙に出来るのは、ただひたすらに蛇の要求に応える事だけだ。


「本当にそうなの、夏樹?」

「じっ、実はそうなんだ。紅葉さんとは仲良くさせて貰ってて、さっきのはちょっとしたスキンシップなんだよ」


 我ながらよく回る口だ。サイベリアでの経験がこんな所にも活きている。


「うーん……だからって口を押さえるのは良くないわ。今後は絶対やっちゃダメよ」


 望むところだった。こっちとしてもあんな事はもう二度とやりたくないんだ。紅葉さんとは長い付き合いになるだろうし。



「紅葉さんも雀桜の出身なんですか! どうりで凛々しいと思いました」

「春子さんも溌剌としていらっしゃって。私も見習わなければいけません」


 カフェ古林でドリンクを三つ調達して戻ってくると、二人はベンチに座って談笑していた。二人に飲み物を渡して隣のベンチに腰を降ろす。立ち去っても良かったけど、二人が何を話すのか気になるのが正直な所だった。


「それにしても、一織ちゃんは息子には勿体ないくらいの美人さんで、初めて会った時はびっくりしました」


 心の中で同意する。今でもふと、例えば寝る前なんかに、一織が俺の彼女だという事を噛み締めて居ても立っても居られなくなる時がある。一織に相応しい男になりたいと毎日思っている。今すぐには難しいけど、いつか堂々と一織の隣を歩ける男になりたい。


「私は夏樹さんとは仲良くさせて頂いていますけど、近頃には珍しいしっかりした男性だと思っています。寧ろ一織が迷惑を掛けていないか心配な程ですわ」


 子供について謙遜しあう二人。想像していたより普通の会話だ。変な空気にもなってないし、これなら俺がいなくても大丈夫か。俺はベンチから腰を上げた。


「ところで────もし御存知なら教えて頂きたいのですが」


 二人に背を向け歩き出す。遠くの空で鳥の鳴き声が聞こえた。


「────もう二人はちゅーをしたのでしょうか?」

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