第67話 王子様のお誘い

俺達の小さい世間はすっかり11月の雀桜祭の話題で持ち切りだったけど、そんな俺達の気を引き締めるようなイベントが10月にはある。二学期中間テストという名前の悪魔が、祭りに浮かれる俺達を待ち受けているのだった。


「明日、うちでテスト勉強をしないかい?」


 サイベリアでの仕事帰り、駅の明かりが遠くに見えたあたりで一織がぼそっと言った。少し先で歩行者用の信号が点滅して、たった今赤色に変わる。俺達はゆっくりと足を止めた。


「……テスト勉強?」


 そんな俺の呟きは、プールに入る時に心臓から遠い位置から水をかけていく行為に似ていた。本当に訊きたいのは「うちで」の部分だったけど、いきなりそこには触れられない。まずは足の先からだ。


「ああ。蒼鷹も来週からテストだろう? 最後の復習が出来ればと思ってね」


 俺はちらっと目線だけを動かして一織の表情を盗み見る。一織は真っすぐ前を向いていて、その横顔はいつもと何ら変わらない。とても初めて彼氏を家に誘った女子高生とは思えない落ち着きぶりだった。


 …………なんだなんだ、意識しているのは俺だけか?


 一織が初めて俺の部屋に来た時なんて、緊張で前日全く寝られなかったっていうのに。


「いいね。それならお邪魔しようかな」


 勿論そんな嫉妬じみた感情は表に出さない。代わりに握った手に少し力をいれるくらいが、俺に出来るささやかな反抗だ。


 信号に合わせて俺達は歩き出す。横断歩道を渡り切ったところで、一織が何が言いたげな様子でぎゅっと手を握り返してきた。表情は依然として爽やかさを保っている。


「どうかした?」

「いや、もう少しリアクションがあると思っていたんだ。ボクが初めて夏樹の部屋にお邪魔した時はそれなりに緊張したものだからね」

「え、緊張してたのあれ」


 初めて来た時の一織といえば、部屋に入るなりそこかしこを物色し始めるわベッドで寛ぎ始めるわで、割とやりたい放題だった記憶がある。意外とお茶目な所があるんだなあって思ったのを覚えている。


「気が付いていなかったのかい? 割と挙動不審だった自覚があるのだけど」

「あ、言われてみれば確かに一織っぽくはなかったかもしれない。あれは緊張してたのか」

「そうさ。だから、夏樹が飄々としている事に少し嫉妬しているんだ」


 そう言って痛いぐらい強く手を握ってくる一織は、やっぱり凄くカッコいいのだった。俺が心の内で隠していた感情を、言葉を、すっと言えてしまうんだから。


「ごめん。実は俺も緊張してた。必死に平静を装ってたけど、本当は一織の家に行けるってめっちゃ意識してた」

「ふふ、そうか。昨日の晩にテスト勉強を中断してまで部屋を掃除した甲斐があるよ」


 一織が満足そうに微笑んだ。駅が近付いて、俺達はどちらからともなく手を離す。俺達の関係は誰にも秘密だった。この二十分足らずの帰り道だけ、俺達はカップルになれる。


 ────それはそれとして。


「一織、それ勉強したくなくて掃除に集中しちゃったやつでしょ」


 答えはなかった。でも、表情を見れば言葉なんていらなかった。

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