第59話 夢のような

 俺と一織が同じパラソルの下で休憩している事は流石に皆気が付き始めただろうけど、空気を読んでくれているのか誰かが一織を訪ねてくる事はなかった。心の中にはずっとむず痒いものが残っていたし、彼女になった一織に対して何を言っていいかも分からなかったので、結果として俺達は海やそこで遊ぶ皆を黙って眺めていた。


「そうだ夏樹、日焼け止めを塗って欲しいんだ」


 唐突に一織がそんな事を言った。


「日焼け止め? 塗ってこなかったの?」

「勿論塗ってきたよ。でもさっき海に入ってしまったからね。こまめに塗り直した方がいいんだ」

「そういうものなんだ」


 塗ったら一日中使えるものだと思ってたけど、確かに考えてみたら水で洗い流されないならお風呂に入っても残ってしまう事になるか。


 一織は首に下げていた防水ポーチから何かを取り出すと、俺にそれを手渡してシートにうつ伏せになる。謎の小物には「UVスティック」と書かれていた。蓋を開けてみると、スティックのりが横に三つくっついたような代物だという事が分かった。


「背中はどうしても自分では塗れないから、夏樹がいてくれて助かったよ。彼氏じゃないとこんな事は頼めないだろう?」


 一織は俺の前に無防備な背中を晒している。うっすらと浮き出た肩甲骨や背骨のライン、皮膚の下に感じられる筋肉の流れ、全てが強烈に目を惹いた。視線を下に落とせばそこにはきゅっと引き締まったお尻があり、俺は慌てて目を逸らした。流石にまだそっちを見る心の準備は出来てない。


 正直断りたかった。手を繋ぐだけでも未だにドキドキするのに、こんなのはいくらなんでも一段飛ばし過ぎる。


 でも、こういった事を超えて行かなきゃいけないとも思った。だって一織は俺の彼女なんだから。


「…………彼女の頼みなら断れないか」


 俺はスティックを伸ばして、一織の背中にくっつけた。


「ああ、水着の紐が邪魔なら解いてもいいからね?」

「…………流石にそれは遠慮させて貰うよ」


 一瞬だけ想像してしまった自分をぶん殴りたい。


 もしかしたら遠い未来に、一織のそういった姿を見る事があるかもしれない。でもそれは今考える事じゃない。俺はそういう事がしたくて一織と付き合った訳じゃなくて、立華一織という人間に惹かれたんだ。


「意外と背中ってでこぼこしてるんだね」


 なんとなく背中は平坦な物だと考えていたけど、こうやってスティックを当てていると案外でこぼこしているなと感じる。背骨のくぼみにスティックを這わせると、一織がビクッと小さく身震いした。


「…………今のはスティックが冷たくてくすぐったかったんだ。心配しなくてもあとで夏樹にもやってあげるよ」

「別に何も言ってないのに」


 多分反応してしまったのが恥ずかしかったんだろう、一織は腕の中に顔を隠してしまった。でも隠しきれていない耳が赤くなっていて、俺は小さくほくそ笑んだ。俺の彼女はなんて可愛いんだろう。



 無事にスティックを塗り終わり、俺達は海へ繰り出した。もう俺達の関係がバレたらどうしようなんて不安は全くなかった。そんな事より一織の方が大切だった。さっきまでの俺とは何もかもが別人だったし、雀桜生の反応なんて全く目に映らなかった。これがリア充の力なんだろうか。こんな活力で日々を生きていたら、そりゃ幸せにもなる。


 その後は一織に日焼け止めを塗って貰ったり、その時の手つきが明らかにくすぐりに来てて怒ったり、颯汰たちに茶化されたりしながら楽しい時間を過ごした。シラタキさんの姿も初めて見ることが出来た。小柄で可愛いタイプで、勝手ながら颯汰とお似合いだと思った。初の雀鷹カップルは俺達になってしまったけど、颯汰とシラタキさんもカップルになれればいいなと思う。


 いつの間にか空は赤く染まっていて、殆どの生徒は既に帰っていた。俺達はただ一緒にいるだけで楽しくて、遊び疲れた後もずっと砂浜に座っていた。もう日焼け止めは三回塗り直している。


「…………帰りたくないな」


 水平線に沈む夕日を眺めながら、一織が呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る