第58話 夏陰

「ふふ、これで両想いって事になるのかな?」


 声が隣に降りてくる。立華さんがシートに寝そべったんだ。声の雰囲気でこっちを向いているのが分かった。


「それとも、ボクの言葉が信じられないかい?」


 世界に俺たち二人しかいないみたいに声が近くに聞こえた。俺が小さく頷くと、立華さんはシートの上を滑るように俺の隣にやってくる。世界から隔絶されたパラソルの下で、俺たちの距離はあまりにも近すぎた。


 恋さえしなければ俺はいつまでも立華さんの先輩でいられたのに。今はまるで、調理されるのを待つだけのまな板の上の鯉だった。もうせめて美味しく食べてくれ──そう願うことしか出来ない。


「────あ」


 強い風が吹いた。視界が急に強い光に包まれ、俺は咄嗟に目を閉じる。パラソルが倒れたんだと気が付くのと同時────唇に柔らかなものが触れた。


「────これで信じられるかな」


 目を開けると、頬を赤く染めた立華さんの顔がすぐ傍にあった。倒れたパラソルがひさしになり、波打ち際で遊ぶ皆から俺たちの姿を隠していた。俺はゆっくりと自分の唇を触り、そしてもう一度立華さんを見た。


「勿論、初めてだからね」


 何が何だか分からない────なんて、流石に言っていられなかった。恋愛の事なんて何も分からない俺でも、の意味は分かる。


「ボクの気持ち…………伝わっていないのなら、もう一度するけど」


 また唇が触れた。今度はさっきより少し長い。キスってこんな感じだったのか。凄く熱くて、そして甘い。


「よいしょ……っと。意外に重いんだね、これ」


 立華さんが倒れたパラソルを砂浜に刺し直す。そうして、また俺の隣に戻ってきた。


「感想が聞きたいな、夏樹?」

「…………凄くドキドキしてる」


 心臓が口から出ていきそうだった。でも、それは立華さんも同じみたいだった。いつもは余裕綽綽な立華さんの表情が今は明らかに硬かった。


「他には?」

「幸せ……かな。ちょっと夢みたいだけど、でも、現実なんだよね」


 あまりにも信じがたいけど、立華さんと俺はどうやら両想いだったらしい。もう嘘だなんて思わない。でも正直な所、まだ実感は湧いてなかった。


「こんなに勇気を出したんだから、現実でないと困るね。まさかキスまでさせられるとは思わなかったよ」


 キス、と口にした途端に立華さんの顔が赤くなる。多分俺の顔も赤くなっているはずだ。夢から覚めて、その行為が段々現実味を帯びてくる。


 俺達は気恥ずかしくなってお互いに視線を外した。立華さんが俺の隣にゆっくりと寝転ぶ。二人並んでぼんやりとパラソル越しの空を眺めていると、突き刺しが甘かったのかパラソルが音を立てて砂浜に倒れていく。


 現れた太陽から目を背けるように横を向くと、同じように横を向いた立華さんの顔がすぐ傍にあった。太陽だけが俺たちを照らしていて、他には誰もいなかった。喧騒が凄く遠くに聞こえた。


 立華さんがゆっくりと目を閉じた。今度は俺が勇気を出す番だった。


 俺は呼吸を止めて、目を閉じ、場所が分からなくなってやっぱり目を開け、


 ────そして、一織にキスをした。

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