第46話 夏、潮騒の香り

 時は流れ、七月になった。


 店長の思い付きで始まった衣装交換も終わり、俺は久しぶりに慣れ親しんだスーツに袖を通していた。メイド服に違和感を感じる事はとうになくなっていたけど、やっぱりこっちの方が断然しっくりくるな。


「一織様っ、やっぱりスーツの方が素敵ですっ!」

「そうかい? ありがとう、りりむ。りりむもメイド服の方が可愛いよ」

「えへへへ……」


 更衣室の前では立華さんと古林さんが仲良く乳繰り合っていた。いや、乳繰り合ってはいないか。立華さんが一方的に古林さんの頭を撫でていた。二人とも一か月ぶりのマイユニフォームに感じるものがあるのか、機嫌が良さそうだった。


「夏樹もね。やっぱりそっちの方がボクは好きだな」


 コロコロでスーツの埃を取っていると、立華さんが傍にやってきた。丁度終わったのでコロコロを手渡すと、立華さんは流れるような手つきでスーツの埃を取っていく。


「流石にメイド服と比べたそりゃね。麻痺してたけど、絶対おかしいもん」


 お陰様でクラスメイトから「文化祭はメイド喫茶にしよう」などと弄られる始末。男子校でメイド喫茶をやってどこに需要があるんだか。それならまだ執事喫茶とかの方が…………いや、顔面レベルが足りないか。立華さんなら完璧なんだけど。


「次は水着だ、って店長が息巻いていたけど、どうなるだろうね」

「え、そんな事言ってたの!?」

「ええーっ、私水着は絶対イヤですよぅ!」


 古林さんがメイド服に乱暴にコロコロをかけながら八重歯を覗かせる。俺も水着はちょっと無理だな。


「そうなったら皆で抗議しよう。一織も嫌だよね?」


 もう流石に、名前で呼ぶだけで詰まったりはしない。内心はまだちょっと気になるけど、すぐに消化出来ている。


「ボクかい? そうだね……」


 答えは決まっているはずなのに、立華さんは真剣な表情で考え込みだした。立華さんが顔を上げた所で、店長がバックヤードにやってきた。珍しく長い黒髪をポニーテールにしている。


「おはよう諸君。六月は慣れないユニフォームでよくやってくれたね。お陰様で売り上げは去年の160%を達成する事が出来た。協力感謝する。七月は特に何もないが、高校生の期末テストや夏休みがあるからな。気を引き締めてやっていこう」

「了解したよ」

「はぁーい!」

「…………」


 まさか水着の話が出るんじゃないかと身構えていたけど、店長の話は至極普通だった。俺は肩の力を抜く。


「ん、どうした夏樹? メイド服が恋しいなら七月も継続していいぞ?」

「まさか。もう二度と着ませんよ俺は」

「それは残念だ。折角似合っていたのに。じゃあ今日もよろしく頼む」


 朝礼が終わり、店長はパソコンとにらめっこを始める。手洗いを済ませホールに出ると、そっと立華さんが身を寄せてきた。


「────さっきの話の続きだけどね」

「ん?」


 さっきの話ってなんだっけ…………と考えた所で、水着の話だと思い当たる。立華さんは水着で接客するのが嫌かどうか。訊かなくても嫌に決まっていた。


 立華さんは、その作り物みたいに綺麗な顔をニヤッと歪めた。綺麗な物は壊れていても美しいけど、これに関しては危険信号だ。立華さんの笑みは俺を揶揄う時の合図だからだ。


「────夏樹が水着を選んでくれるなら、ボクは構わないよ?」


 立華さんの────水着。


「うっ……!」


 思わず声が漏れる。それくらい頭が沸騰しそうだった。そういう事を俺は考えないようにしていたのに。立華さんと友達でいる為にはそれが必要なのに。


 考えるな。


 考えるな。


 そう思えば思う程、俺は脳内は目の前の立華さんに架空の水着をあてがい始める。華奢な身体、控えめに主張する胸、小さく丸みを帯びたお尻、すらっと伸びた脚…………見た事もない立華さんの身体を、全脳細胞が必死に構築していた。


「ふふ、顔が真っ赤だよ? ボクたちは友達じゃなかったのかな?」


 いや、友達だとしても異性の水着は興奮するだろ。


 え、するよな?


 水泳の授業以外で見た事ないから分からないけど。


「ま、考えておいてよ。まだ私服デートもしていない事だしさ」

「考える? …………何を?」


 お客様が風除室に見えた。立華さんが案内に歩いていく。


 遠ざかっていく立華さんの背中に…………俺はどうしてあるはずのない水着の紐が見えているんだろう。


「…………何を考えてんだ、俺は」


 頭を振って雑念を追い出す。同僚相手に興奮していては、出来る仕事も出来なくなってしまう。


 それに、考えても仕方がない事だ。まさかこの夏、立華さんと海に行く訳でもあるまいに。

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