第41話 りりむ、頑張ってます
もう今日は全然ダメだった。
立華さんが視界に入るだけで動悸・息切れ・その他様々な異変が襲い掛かり、まるで身体が自分の物じゃないみたいだった。身体に染み付いた経験が何とか俺を動かして業務を終える事は出来たものの、新人の古林さんにまで「今日のセンパイ、つっかえないですね」とジト目を向けられる始末。間違いなく皆に迷惑をかけてしまった。
退勤時間になった俺は古林さんと一緒にバックヤードに戻った。立華さんはレジの処理を終えてからあがるらしい。少しの時間のズレが今日だけは嬉しかった。
「ふい~、疲れましたねえ」
古林さんが気の抜けた声を出す。
「センパイ、今日はどうしちゃったんですか? 私、仕事中のセンパイだけは尊敬してたのに今日はへなちょこじゃないですか」
「ごめん……ちょっと調子が出なくてさ」
スーツ姿の古林さんが「本当に仕方ないですねえ」と呟きながら退勤ボタンを押す。その小さな背中が妙に大きく見えた。
「一織様にまで迷惑掛けないで下さいよ? 別に私にならいくら迷惑を掛けてもいいですけど」
古林さんは本当に頼もしくなった。勿論まだミスもあるけど、それ以上にやる気とガッツでサイベリアを助けてくれている。まさかこんなに早く古林さんに助けられる日が来るなんて思わなかったな。
「いや、古林さんに迷惑を掛ける訳にもいかないよ。出来るだけ早く復活するからさ」
「それならいいですけど」
そう言うと古林さんはささっと更衣室に引っ込んでいき、少ししてシュルシュル……と衣擦れ音が聞こえてきた。古林さんはメイド服姿の立華さん目当てでやってきた蒼鷹生達からコアな人気を獲得しているようで、最近よく声をかけられているのを目にする。可愛らしい女の子の男装姿が蒼鷹生の性癖にぶっ刺さっているのかもしれない。
俺は隣の更衣室に入り、速やかにメイド服から制服に着替えた。今日は立華さんと顔を合わせたくない気分だった。申し訳ないけどこのまま帰ってしまおう。
先に隣の更衣室が開き、古林さんが帰っていく。一人になったバックヤードには静寂が訪れた。今はその静寂が何とも心地いい。立華さんという太陽がいない世界には代わりに月が輝いている。今の俺に太陽は少し眩しすぎたんだ。
◆
「センパイ、今日は一緒に帰りましょうよ」
外に出ると、帰ったはずの古林さんが自転車に跨って俺を待っていた。バチバチと明滅する街灯に照らされた古林さんは勤務中と違い普通に制服のスカートを履いていて、ペダルに乗せた片足が高い位置で曲がっているせいでスカートの中が見えそうになっていた。慌てて視界を上方修正する。
「古林さん、一体どうしたの?」
平静を装っているものの実は結構びっくりしていた。今まで古林さんと一緒に帰った事はないし、一人でさっさと帰ってしまう印象があったからだ。
「どうかしたのはセンパイの方じゃないですか。私で良ければ話を聞いてあげるって言ってるんです」
古林さんはひょいっとサドルから降りて自転車を押す体勢になると、俺の元までやってきた。制服姿の古林さんは何故かスーツ姿より一回り小さく感じた。仕事中は頼もしくなったけど、今の印象は元気な小動物だ。
「ありがとう。でも別に何かあった訳じゃなくてさ」
「はいはい、そういうのいいですから。ほら、行きますよセンパイ」
俺の誤魔化しは一瞬で蹴散らされた。古林さんが自転車を押すカラカラという音が夜空に溶けていく。俺は慌てて古林さんの背中を追った。
「初めてですね、センパイと帰るの」
そういえば、という風に古林さんが言う。一応高校生の男女が二人きりで帰っているというシチュエーションではあるけど、古林さんは全然緊張してなさそうだった。まあ古林さんは立華さんに心酔しているし当然といえば当然か。俺なんか全く意識してないだろう。
「そうだね。古林さんってどこに住んでるの?」
「私はこの辺りです。雀桜までチャリ通してるんですよ」
「あ、そうなんだ。てっきり電車通だと思ってた」
いつも自転車で駅の方角に消えていくし、今だってそうだ。多分、駅の方角に家があるんだろう。
「センパイは電車通ですよね。羨ましいです」
「どうして?」
「だって友達と一緒に帰れるじゃないですか」
「…………確かに」
古林さんの言葉は正に目から鱗だった。言われるまで全く気が付かなかった。
「え、何ですかその言い方。もしかして友達いないんですか?」
「そういう訳じゃないけどさ。ほら、平日はほぼ毎日サイベリアに来てるから。そういう機会も殆どなかったなあって」
今度は古林さんが閉口する番だった。
「言われてみれば…………もしかしてアルバイトって青春を犠牲にしてるのかな……」
「俺はそうは思わないけど。サイベリアで働くのは面白いし、立華さんや古林さんにも会えたしね」
サイベリアで働かなければこうやって同年代の女の子と一緒に帰る事もなかった。そう考えたら青春を犠牲にしているとは思えないんだよな。少なくとも近頃の俺は高校生活で一番青春しているはずだ。
「それはそうですけど。私もセンパイと知り合えたのは良かったと思ってますし」
「あ、そうなんだ。てっきり嫌われてるのかと思ってた」
「嫌いな人と一緒に帰ったりしないですよ。気が付かなかったんですか?」
「それは…………そうかもしれない」
でも俺が立華さんと話してると思いっきり睨んでくるしなあ…………嫌いじゃない人相手にあの目つきは出来ないと思うんだけど。絶対に嫌われてると思ってた。
「まあセンパイは鈍そうですからね、許してあげます。ところで本題に戻るんですけど────センパイ、何があったんですか?」
古林さんが切り込んできた。俺の事を嫌っていないというのが本当だとするならば、きっと古林さんなりに俺を心配してくれているんだろう。だから俺を待っていた。
そんな古林さん相手に嘘を吐く事は────俺には出来なかった。
「…………実は立華さんとちょっと色々あってさ」
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