第18話 クラス対抗リレー(後)

 長いようできっと一瞬だった。俺は今、白線の上でバトンが来るのを待っている。


「なあ、お前夏樹ってんだっけ」


 心臓がバクバク五月蠅かった。隣に立つ佐藤の声が、鼓動の隙間を縫って辛うじて聞こえてきた。


「うん。そうだけど」

「ちょっと聞いたんだけどさ、雀桜の子が来てくれたのってお前のおかげなん?」


 佐藤に緊張している様子は全くなかった。4走にバトンが渡った時点では4組が僅かにリードしている。その余裕があるんだろう。もしくは、帰宅部の俺なんて眼中にないのか。


「どうだろう。そうかも」


 答える言葉を吟味する酸素が脳に供給されていない。俺はぶっきらぼうに返答する。


「まーじか。それについては本気でありがとな。ガチで感謝してる」


 佐藤はおどけるように俺の肩を叩く。反応する余裕すら俺にはなかった。あと半周でバトンがやってくる。俺の目はずっと4走を追っていた。


「お前のおかげで雀桜の子達に俺のカッコいい姿アピール出来ちゃうからさ。やべー、ぜってえ彼女出来るじゃん」


 佐藤が小さく身を震わせた。幸せな未来を想像して居ても立っても居られなくなったのか。


「分からないよ。ほら、並んだ」


 1組4走の高町が気迫の走りを見せていた。最終コーナーを回る所でついに4組の背中を捉える事に成功する。


「うわー、亮介追いつかれんじゃん……ま、いいか。夏樹って帰宅部っしょ? 悪ィけど俺、帰宅部にゃ負けねーよ? バスケ部2年で一番足速いし」


 もしかしたらそれは勝利宣言のつもりだったのかもしれない。佐藤はそう言い捨てると、一度だけ首を回して位置についた。僅かに先を走る4組が内側だ。


「なつきぃいいいいいい! あとは、ま、か、せたあああああああっ!!!!」


 高町が叫びながら走ってくる。バトンを俺に差し出してくる。


 足の裏が馬鹿みたいに熱い。血液が沸騰しそうだった。


 手のひらに硬い感触。身体に電撃が走る。皆の想いが俺に乗り移った気がした。


『さあ────泣いても笑ってもこれが最後! アンカーにバトンが渡りました!』



 何が何だか分からなかった。夢のような浮遊感が俺を包んでいた。


 そんな曖昧な五感の中で────身体だけが必死に硬い地面を蹴っている。


「────、──────、────!!!」

「─────────、────!!!」


 あらゆる所から叫び声が聞こえてきた。皆の声が衝撃となって俺の身体に浴びせられていた。何を言っているのかは全然脳が処理出来なかった。


 トラックは残り半分、ただ一つ分かるのは────俺の前には背中が見えるって事だけだった。


 1メートルくらい離されている。どれだけ必死に脚を動かしても、どうしてもその差が縮まらなかった。肺が口から飛び出そうなくらい痛い。どうしてこれで縮まらないんだよ!


「─────────、────!!!」


 悔しい。


 悔しい悔しい悔しい悔しい!


 人生で一番自分がみじめだった。頭は働かないのに、そんな感情だけはもう心の中にしっかりとあった。ここで負けたら俺はもう二度と顔を上げられない気がする。


 でも、差が縮まらないんだ。


「────、─────、────!!!」


 第3コーナーに差し掛かる。視界がゆらゆらと溶けてきた。これ俺死ぬんじゃないか。死んでもいいや。だから勝たせてくれよ。もう何もいらないから今すぐ足を速くしてくれ。


 なあ、頼むって神様。


「────夏樹ッ!」


 声がした。


 視線が反射で声の方に向く。最後のコーナーに蒼鷹の男子生徒が立っていた。


 ……いや、そんな訳はない。蒼鷹生は全員ジャージを着ているはずだ。制服姿の蒼鷹生なんているはずがない。あれは一体何なんだ。


 ────誰なんだ、一生懸命俺に声援を送ってくれるあのイケメンは。


「夏樹、もう少しだ! 頑張れっ!」


 ────立華さんに決まってるだろ。


「うおぁあああああああああっっッ!!!」


 身体の内側で何かが爆発した。嘘みたいに全身から痛みが消える。背中に羽根が生えたみたいに身体が軽かった。


 …………気が付けば最後の直線を俺は走っていた。何故か物凄い快感が俺を包んでいた。限界を超えると人間はそんな感じになるのかもしれない。


 佐藤の背中はもう目の前だった。そしてゴールテープも目の前だった。抜けるかなんて分からない。身体の動くままに全身を爆発させる。


「あぁあああああああああああっッッ!!!」


 ────蒼鷹祭の最後を締めるゴールにしては、あまりにも不格好だったかもしれない。


「はっ、はあっ、はあっ……はあっ、はっ、はっ……!」


 ゴールの勢いのまま俺は地面を転がりぶっ倒れた。天地も上下も左右も分からない。青空が真っ白に見えるくらい脳に酸素が足りてなかった。視界がぐるぐる回っている。


 勝ったのか負けたのか、それすら分からなかった。ただ最後にもう背中は見えていなかった。勝ってたらいいな。本当に、勝っていて欲しい。


「はあっ……はっ……はあッ……」


 太陽の温かさだけがかろうじて全身で感じられた。あとは意外とひんやりしいてる地面の冷たさ。それが凄く気持ちいい。


 ふっ、と視界が暗くなった。いきなり夜になったのか。そんなはずはない。きっと誰かがすぐ傍に立っている。それで太陽を隠しているんだろ。それくらいは分かるんだぜ。


「…………」


 かろうじて、目を開けた。


 そこには────太陽よりも眩しい王子様が立っていた。


「────カッコよかったよ、夏樹」


 王子様が、乙女のような笑顔で俺に手を差し伸べていた。

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