第2話 立華一織、襲来

 それから数日が経ち、ついに立華一織の初出勤の日がやってきた。


「私はこれから外の店舗を回ってくるから、新人の事は夏樹、頼んだよ?」

「…………はい」


 店長は明らかにこの状況を楽しんでいて、本来なら社員がやるべきオリエンテーションを俺に押し付ける始末。そんな訳で俺はさっきからバックヤード内をうろうろとしていた。流石に気持ちが落ち着かない。


「…………いやいや、仕事は仕事だろ」


 ふわふわしている心を一喝する。


 別に新人が男だろうが女だろうが、それが雀桜の王子様だろうが関係ないだろう。確かに「実在したのか」という驚きはあるけど、噂だってどこまでが本当か分からない。案外、普通の女の子が来るかもしれないぞ。その時教育係の俺が浮足立っていたら、きっと立華さんは困惑する。それは店長の信頼を裏切る事になってしまうんじゃないか。


「そもそも、一人の生徒が雀桜全員から惚れられているなんて俄かに信じがたい。イケメンアイドルならまだしも、女の子だぞ」


 いくらその辺りが多様になってきた時代とはいえ、流石にフィクションが過ぎる。今どき少女漫画ですらそんな設定ないんじゃないか。読んだ事ないから分からないけど。


「…………」


 時計の針が進むのがやけに遅く感じる。朝礼まではあと十五分。来るとしたら、多分そろそろだ。


 もう一度姿見の前に立ち、コロコロで制服を綺麗にしていく。何度もやっているので、もうホコリ一つ付いていない。


 「整理」「整頓」「清掃」「清潔」「しつけ」の5Sは飲食店で働く上では何よりも大切だ。もし俺がそこを欠かしていては、それを見た立華さんは「あ、こんなものでいいんだ」と思ってしまうだろう。俺のせいで立華さんの評価が下がるのは頂けない。


 俺がコロコロをフックに戻すと同時────重たい金属の扉が、音を立てて開いた。


 振り返る。


 目が合う。


「今日からここで世話になる立華一織という者だが────店長さんはいるだろうか?」


 ────とんでもないイケメン美少女が、そこにいた。



 あまり女性をジロジロと見るのも悪いとは思うんだが、つい見てしまう。それくらいは許して欲しい。立華一織は蒼鷹生にとってどんなアイドルよりも有名人なんだ。


「これで合っているかい?」

「大丈夫。その後は手のひらと指の間ね」

「了解した」


 手洗いをする立華さんをチェックしながら、ちらちらと全身を確認する。


 少年のようにも見える黒髪のショートヘアの下には切れ長の大きな瞳が燦燦と輝き、その視線は壁に張り付けてある「手洗いのすすめ」に注がれている。そのすぐ横には小さなホクロがひっそりと瞳に寄り添っていた。これが泣きボクロという奴だろうか。


 身長は俺より低いけど女子にしたらかなり高い方だ。恐らく170センチくらい。雀桜の制服のスカートからすらっと長い脚が真っすぐ伸びていて、つい目が止まる。

 ……そういやサイベリアの制服のサイズいくつだろうか。あとで聞かないといけないな。


「手首は五回ずつでいいよ」

「おっと。やり過ぎてしまったか……これでどうだろうか?」


 立華さんがピカピカになった手を俺に見せてくる。白い指が彫刻みたいに綺麗だった。冗談みたいに整った顔で見つめられ、男なのに少し胸が高鳴った。


「完璧。じゃあ────うん、どうしようか」


 段取りを何も考えていなかった俺は、早速困り果てた。なにせオリエンテーションなどやった事がない。考える時間もなかった。


「店長さんはいないのかい?」


 立華さんの声は少しかすれたようなハスキーボイスで、不思議と聞いているとホッとする。世間で大バズりしている女性シンガーソングライターに少し似ている気がした。つまり、イケボって事だ。


「困った事にね。一応俺が立華さんの教育を任されているんだけど」

「そうなのかい? えっと……山吹夏樹、でいいのかな?」


 立華さんがぐいっと顔を近づけて俺の名札を見る。香水をつけているのか、ペパーミントのような爽やかな匂いが鼻腔をくすぐった。


「うん、よろしくね立華さん」

「こちらこそよろしく、夏樹」


 いきなり下の名前で呼ばれ面食らってしまう。立華さんは俺に微笑みを一つ残して、奥の荷物置きに歩いていく。初出勤なのにどうしてあんなに堂々としているんだろう。


「…………あの噂、絶対本当だ」


 俺は確信していた。


 これは、勝てない。


 勝てる訳がない。


 『雀桜の王子様』立華一織は────正直、どうしてこんな所にいるのか分からないレベルのイケメンだった。ボーイッシュ系女優としてテレビに出ているか、ファッション雑誌の表紙を飾っているか、そうでもなければどこかの王子様にでもなっていないとおかしいようなオーラを纏っていた。冗談ではなく、本気でそう思った。


 女の子なのに、めちゃくちゃカッコいい。


「夏樹、制服を頂きたいんだが」


 荷物を置いた立華さんが戻ってくる。歩き方まで凛として様になっていた。


「あ、ああ────そうだった。サイズって分かる? 多分SかMだと思うけど」

「そうだね……夏樹が着ているのは?」

「これは確かLだったかな」


 答えると、立華さんが目の前までやってきて、俺の身体に添わせるように両手を伸ばす。腕は流石に俺の方が長かった。


「Lでこれなら、私はSだろうね。ピッタリしている方が格好良さそうだ」

「あ、でも男性用と女性用で違うからどうだろう」


 多分店長の趣味なんだろうけど、うちの制服は男女ともにかなり凝っている。キッチンとホール用でまず違うし、ホール用は男性はスーツに蝶ネクタイ、女性は丈の短いメイド服だ。多分同じLでも大きさが違うはず。


 俺が女性用の制服を棚から出そうとすると、立華さんが驚きの提案をする。


「いや、夏樹が着ているのと同じデザインがいい。それを貰えないだろうか?」

「……ちょっとそれは俺じゃ決められない気がするなあ」


 はっきり言って、サイベリアは店長のワンマン企業だ。店長が良いと言えば基本的にどんな事でも通る驚きのシステムを採用している。だから本来なら店長に相談する所だけど……店長はこう言った。


 ────夏樹、あとは任せたよ。


 なら、ここは俺が判断しなければならないという事だ。それならば答えは一つだった。それに、多分店長も同じ事を言うような気がした。


「いいや、立華さんは男性用ってことで」

「いいのかい? 今しがた決められないと言っていた気がするが」

「立華さんの事は店長から任されてるから。だから、いいよ」


 男性用の制服を手渡すと、立華さんが真っすぐ俺の目を見て、笑った。


「ありがとう、夏樹。どうやらボクはいい先輩に巡り合えたようだね」


 ────『雀桜の王子様』は、男でも惚れそうなイケメンだった。


 明日登校したら、そう颯太に打ち明けようと思う。

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