幽霊階段
誰も居なくなった日が落ちる寸前の階段。
明路はひとり、そこに腰掛けていた。
ぼんやり血溜まりの幻影が見える場所を眺めている。
背中に当たる太陽に、あまり熱を感じなくなった頃、声がした。
「なんの根比べ?
僕が現れるまで?」
「……先輩」
と明路は振り向く。
厭な夢を見る。
リアル過ぎて息が詰まる。
寝ているのか起きているのかわからなくなる。
明路――。
座ったまま明路は『先輩』を見上げた。
「なんで今まで出て来てくれなかったんですか?」
「いや、なかなか正気に返れなかったし。
まともな意識が戻ってきてからは、なんか可愛く画策してんな~と思って」
ただ観察していた、と言う。
可愛く画策ってなんだろうな、と思いながら、横目に見る。
『誰がなんと言おうとも、僕には君が可愛く見えるよ』
という台詞を聞いたことがある気がするが、どういう意味だろうな、と思っていた。
「先輩、実はあんまり私のこと、好きじゃないでしょう」
と言うと、ははは、と笑い、
「バレた?」
と言う。
そこに居たのは、霊ではあるが、いつも通りの先輩で安堵した。
「どうするの? これから」
「どうしましょう?」
と明路は両の膝で頬杖をつき、先輩を見上げる。
「予知の世界で、予知をして。
それを見たあとの世界で、また未来を見る――」
「ああ……また見えたんだ?」
「覆せないものなら、予知など見る必要はないのに、と思います。
私にとって、リアルな予知は、もうその世界を体験したも同じ。
何度も――
厭なシーンを繰り返す」
「死ぬ人間はもう決まっていて、動かないとか、そういうこと?」
「必ずしもそうではないと信じたいですけど」
先輩を見つめて言うと、彼はその視線の意味がわかったように、俯き笑う。
「出来るだけ死なないようにするよ。
君のために」
じゃあ、僕は行くよ、と彼は言った。
「大きく未来を変える必要があるんだろう?
だったら、僕は予定より早くに起きるよ」
此処で和彦と打ち合わせすることが多いので、この先のことは或る程度、わかっているようだった。
「君の声も聞こえていたしね」
『早く起きて、先輩。
死んじゃいますよ』
そう此処に膝をつき、呼びかけたこともある。
「殺すって手もあったのにね」
「え?」
僕の身体の居場所はわかってるんだろう? と先輩は言う。
「僕が予定より早く死んだりしたら、未来、変わっちゃわない?
僕なんか居なくなっても、あんまり関係ないかな」
「そんなことないです。
でも、それじゃあ、なんのために未来を変えたいのか、わからなくなっちゃいますよ」
そう明路は微笑んだ。
夕陽の残滓に透ける先輩の身体を見ていると、
「明路。
未来に進むのが怖いんだろう?」
と先輩は訊いてくる。
「いろいろ考え過ぎると、動けなくなるよ。
僕もさ、先のこと考えて、ああしなきゃこうしなきゃって思うことが負担で、鬱々としていたときもあったよ。
でも、そんなときは、きっと、何も考えないのがいいんだ。
いつかその瞬間が訪れるとしても、それは今じゃないんだから。
そのときそのときで対処すればいいんだよ、明路。
だから、今を楽しんで。
今、この瞬間もまた、君の人生なんだから」
そう言われたとき、あの座敷牢での生活が思い出された。
自分の視界には、いつも黒い格子があって、それが誰の姿をも阻んでいた。
兄の姿も、あの頃の昌生の姿も。
格子の向こうに見たと思ったら、すぐそれが取り払われたのは、あの男だけだ。
「そうですね。
先ばかり考えて暗くなってても仕方ないですよね。
今、この瞬間こそが私の人生なんですから。
あんな最後を迎えても、あのときの人生も、今、思えば、そう悪くもなかったです。
忘れられない人たちにたくさん出逢って、今また、その人たちに出逢えているんですから。
ま、服部くんは、そのことをどう思ってるのか、わからないですけどね」
だからこそ、私、幸せになって欲しいんです、と告げた。
「あのとき私が巻き込んでしまった誰も彼も」
「それはまた高尚な考えですけど」
そんな声が階段の上からした。
先輩の身体を透かし、法衣姿の男が見えた。
劉生がこちらを見下ろしていた。
「でも、言わせてもらいましょう、明路さん」
彼は確かに自分の名を呼んだ。
「余計なお世話ですよ。
僕の幸せは僕が掴みます。
貴女は服部由佳を過保護だと思うかもしれませんが、貴女も同じことをしています。
さすが兄妹ですよね」
「……効きが悪かったみたいですね」
「記憶を消しても無駄ですよ。
僕は何度でも、貴女の前に現れます」
まるで、タチの悪いストーカーのようだ。
だが、なんとなく覚悟していた。
劉生の記憶を封じたあと、垣間見えた未来。
そこに、彼が居たから――。
そして、その未来に居なかった人物が居る。
それは、ただ、自分が選んで見た場面のせいなのか。
コンクリートの階段を、一段上る。
コツリと音がした。
そうして、足を進めるだけでも、時間が経つ以上、未来への一歩だ。
明路は劉生を見上げ、消え損ねた先輩を見下ろして言う。
「わかりました。
行けるところまで行きましょう。
それがきっと私たちの運命だし。
未来を見るという罪深い力を得た私の末路なんでしょうから」
きっと此処が始まりではなかった。
そう思いながら、明路は幽霊階段を見下ろす。
その先には、あの踏切があり、学園があり、結界の果てがあった。
かつて見た未来の予知が切れた数日後、
学園の旧校舎が爆発炎上した。
そして、消えていた記憶は永遠に戻ることはなかった。
その記憶を解放できる人間が存在しなくなったからだ。
だが、僅かに取り戻した記憶があった。
あの幽霊階段で、未来を見てきたと告げたあと、由佳が言ったあの言葉。
「明路。
未来は変わらないよ。
変えてはならない、この未来は。
だから、記憶を消しておくよ。
俺の――
記憶も消しておく」
そっと唇に何かが触れた。
あのときの感覚を思い出しながら、明路はひとり、幽霊階段に立っていた。
背後に、夕陽の熱と人の気配を感じながらも振り返らずに。
一度、目を閉じ、開ける。
今の、この世界を瞳に焼き付けるように。
視界の端にすべてを呑み込み、焼き尽くされた旧校舎が入っている。
消えゆくそれらすべてを、心に留めて――。
明路はその景色に別れを告げ、階段を上っていった。
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