昌生

 

 誰を見捨てて


 誰を殺して


 

 誰を助ける――?


 

 和彦は少し重い玄関の戸を開け、中に入った。


 昌生が何処に居るのか、すぐにわかった。


 音がしたからだ。


 そちらに向かい、歩いて行く。


 長い廊下の向こうに、着物姿の彼女の背が見えたとき、ほっとした。


 あの女の手紙を読んでから、ずっと悪夢にうなされる。


 いっそ、何も知らない方がよかった気もしているが。


 どのみち、悪夢はもう始まっていた――。


「ただいま」

「あら、おかえりなさい」


「昌生、今日、何処かに行った?」


 そう問うた自分に笑いながら昌生は言った。


「私が家でじっとしてるわけないじゃない」


 そんな彼女の前で、洗濯機は回っている。


「そうそう。

 劉生のところにも行ったのよ」


「……へえ」


 そこで話が終わってしまったので、さりげなく、続きを促す。


「どうだった?

 元気だった?」


「相変わらずよ。

 面白くもない会話して帰って来ただけ。


 あれ、本当に私の弟なのかしらね」


 ははは、と笑い、ネクタイを外した。


 昌生が何かを掴むような仕草を自分の側でする。


 その手には、長い黒髪が握られていた。


「浮気?」

とこちらを冷やかな目で見て言う。


「いやいや。

 君の弟だって、髪長いじゃない」


 そう言いながら、明路の髪が何かの弾みで付いたのかなと思っていた。


 あの女と浮気。


 ……絶対ないな。


 あんな恐ろしい女。


 昌生はまだ胡散臭げにこちらを見ながら、それを近くのゴミ箱に捨てている。


 僕なら、DNA鑑定にでも出すところだが。


 そう思いながら、ふわりと小さな茶色いゴミ箱にそれが落ちるのを見ていた。


 あとで、回収しておくか。


 何かに使えるかもしれないし――。


 


 眠る前、明路はあの飾り棚から、例の腕時計を出してきた。


 手巻き式のそれは、巻いた覚えもまるでないのに、いつも止まることなく動いている。


 狂いなく動く秒針の音を聞きながら、明路は少し曇って見える時計の文字盤を見つめていた。


 やがて、口の中で呟く。


「お……


      」




 

 


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