第六章 すれ違う人々

雨上がり

 

 翌朝は雨上がりのいい天気だった。


 明路は大きく伸びをしながら、いつもの道を急ぐ。


 コンクリートの階段を降りていると、背中にヒヤッとしたものが入り込んできた。


 小さく悲鳴を上げ、振り返る。


 階段の上に被さるように枝を伸ばす木が、葉から雨の名残りを落としたのだ。


「もうーっ」

と振り返ったが、自分の首筋を覗けるわけもない。


 手でしずくを払ったとき、下から傘を差して上がってくる男がこちらを見ているのに気がついた。


「こんにちは」

と黒い傘を差したその男は言った。


「こんにちは」


「佐々木明路さん」


 長髪をひとつにまとめたその男は、知るはずもない自分の名を呼ぶ。


 由佳ほどではないが白いその顔は、定規で引いたように整っている。


 見る者によっては面白味に欠ける顔だと思うかもしれない。


「どうして、私の名前を?」


 男はそこから上がって来ずに言う。


「貴方が教えてくださったんですよ」


 明路さん、と男がまた呼んだ。


「貴方はね、私の夢に出てくる人と同じ顔をしてるんですよ。


 いえ、その顔ではないんですけどね。


 あれは、前世の記憶というより、『私』の記憶なのでしょうね」


 乾いたコンクリートを見つめ、男はこちらにというより、自分自身に確認するように呟く。


「どうして、傘を差してらっしゃるんですか?」


 そう問うと、男は少し照れた風に言う。


「この方が貴女が覚えてくださるかと思って」


 微笑んだ自分から視線を外すように、彼は俯いた。


「明路さん、貴方は今、幸せですか?」


「幸せですよ」


 彼は即答した自分に驚いたように顔を上げる。


「幸せですよ。

 今はそう思います。


 こんな風に自分のために尽力してくれていた人が居たなんて、あのときは知らなかったから」


 明路は、彼に一歩近づき、言った。


「未来は変わらないかもしれない。


 何度外れかけても、元のレールに戻るかもしれない。


 でも、その度、足掻くのは、貴方たち、善人であってはならない。


 私はそう思います」


 劉生は口を開きかけたが、言わさなかった。


「劉生さん」


 今日は名乗ってはいない、その名を呼ぶと、彼は目を見開く。


「名前には力があるんです。


 だから、私は――


 貴方から名前を取り上げる」


 


 昨日の雨の滴を残す庭を通り、劉生は母屋の玄関に入った。


 土間で傘を閉じる。


 ゆっくりと滴が伝う黒い傘を見ながら、


 何処で濡れたのだろうかな、と思い、


 何故、自分は傘を差していたのだろうかな、と思った。


 傘立てにそれを入れ、廊下に上がる。


 そこにある細い鏡に自分の顔が映っていた。


 少し不思議に思いながら、それを見つめ、髪をほどいた。


 


 劉生の消えた階段上の道を見ながら、明路は、ひとつ溜息をもらした。


 これでいい、と思いながらも、胸が痛むのは、大切な仲間を人生から切り離したからだろうか。


「何をやってるんだ。

 馬鹿か、お前は」


 罵る声に顔を上げる。


 上の道に居たのは、劉生ではなかった。


 眩しさに瞬きながら、そこに居る人物を見極める。




 階段下、住宅街の入り口の道に由佳は立っていた。


 振り返り、階段を見上げる。


 そこを覆う木々は朝日にきらめく。


 昨日の雨のせいだろう。


 今、明路が木々の向こうに見えたと思ったのだが。


 何かを押しやるように駆け上がる姿が見えたと思ったのも気のせいだったのか。


 ひとつ溜息をつき、前を見たが、また振り返る。


 階段の途中にゆらゆらと揺らめく影が見えた。


『逃げて』


「黙れ……」


『逃げて……


  明路、やめ……』


「黙れっ!」


 叫んで一息ついても、あの人影はまだ揺れていた。


「由佳ー」


 国道の方から、皆がこっちを向いていた。


 呑気に手を振る友人たちの一番後ろ、聡子が不安そうにこちらを見ていた。


『逃げて……』



 あの記憶はなんだ?


 赤い――


 あれは……






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