雨のKwaidan

劉生

 

 檀家を巡った帰りに、自分はそこで足を止めた。


 雨はまだ降っている。


 下の住宅街の道へと続く階段。


 静かなそこへ意識を向けた。


 中段辺りに、じんわりと血の広がったような跡が見えてくる。


 そのままそこに意識を集中していると、やがて、階段の下の方に黒い人影が見えた。


 その人影は項垂れるように頭を下げたまま、手を空中に突き上げる。


 低いうめき声を上げながら、冷たく濡れたコンクリートの段に手をかけ、ゆっくりと這い上がって来た。


 その口から経のように何かの言葉が途切れなく漏れ始める。




『……る……』

 

 


 いつもならそこで止めるのだが、今日はそのまま見つめていた。


 その黒い人影はあの血溜まりのところまで来ていた。


『……る……』


「あらっ、先生っ」


 陽気な女の声に、集中を破られた。


「先生、こんにちは。

 お帰りですか?」


 振り返ると、見知った近所の女性が立っていた。


 傘を差し、着物を着ている。


 何かのお稽古の帰りのようだった。


 もう一度、視線を戻すと、もう影は消えていた。


 そちらを未練がましく見ながら、

「ええ……はい」

と答える。


 なんとなく一緒に歩き出す婦人に話を合わせながら、あの影のことを考えていた。


 そして、雨の日、いつもそこで立ち止まる少女のことを。


「私も先生みたいな先生だったら、もうちょっと熱心に習ってたんですけどねー」


 陰鬱な雨をも払うような女の声に、影が消えたことを残念に思いながらも、ほっとしていた。


 やはり生者の方が遥かに強いと再確認出来たようで。


 この女性は霊能力などなくとも、ただしゃべっているだけで、辺りの不運を祓っている。


 こうした人は結構居るものだ。


「先生、手相見られるんですってね。

 今度、私のも見てくださいね」


 そうですね、と曖昧に返事をしながら、己れの手を見る。


 随分と短い生命線だ。


 どんどん短くなっている気がする。


 気のせいか――。


 己れの手を握り締め、ふっと笑った。


 階段の上、街路樹から滴り落ちる雫を受けて、制服姿の少年が立っている。


 その目はこちらを見ていた。


「先生?」


 どうやら、彼女にはその姿は見えないようで、不思議そうに自分の視線の先を追っているようだった。


 少年は口を開く。


『……けて』


 たすけて


 どの霊も必ず言う言葉だ、と思った。


 だが、彼は言った。


 

『……るを


  たすけて……』

 



 自分はその霊をなんの感慨もなく、ただ、眺めていた――。






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