第29話 私をネパールへ連れてって
精算するお客さまが来ました。
わたくしとマービーは自分が担当しているレジ機に向かいます。5秒後には行列ができてしまいました。
わたくしは、動作が遅いのですが、少しでも速くできるように手を動かしました。
クリシュナさんは、若い女性の目をまっすぐに見つめたまま、レジ機へ移動できずにいましたから、一刻も早く待機客をなくして、クリシュナさんたちに会話する時間を持って欲しいと思ったのです。
クリシュナさんは黙ったままでした。
クリシュナさんと若い女性は、レジカウンターと店内を隔てた扉を挟んで対峙しています。クリシュナさんは、悲しそうな表情をしていましたが、濡れた瞳には喜びの感情がわずかではありますが含まれているような気がしました。
わたくしは、お客さまの対応をしながらチラチラとクリシュナさんを見ていました。
若い女性は懇願するような表情です。
家出してきたということですから、覚悟を決めているのでしょう。クリシュナさんに断られたらどうするのでしょうか?
まさか自殺はしないと思いますが、死にたくなるほど落胆することでしょう。
クリシュナさんにしても、家出女性をネパールへ連れて行くとなると、女性のご両親が怒り出すはずです。
誘拐犯になってしまうかもしれません。
クリシュナさんは、どうするつもりでしょうか?
「ミドリさん」
とクリシュナさんは、ポツリと言ったきり、また黙ってしまいました。若い女性の名前はミドリさんと言うようです。
2人は見つめ合っていました。
「お願い! 私を連れてって!」
とミドリさんが、小さな声で言います。
「家出してきたということは、お父さんやお母さんに黙って出てきたんですね」
クリシュナさんがゆっくりと話します。
「あの人たちとは、何度も話し合った。あんなバカな人たちと何十年話し合ってもわかり合えない。ムリなの。お父さんは何も理由は言わないし、口を開けば『結婚は許さん』ってだけ。話し合いにもならない。
お母さんは、他の人を選びなさいって、お見合いをどんどん進めちゃうし。あんな差別主義者で、偏見だらけのバカな連中、相手にしていられない。私、もう、あの家にはいられない」
支払いを終えたお客さまが、クリシュナさんとミドリさんをジロジロ見ながら店を出て行きます。レジ前でわたくしがバーコードをスキャンし終わるのを待つお客さまも、ジッと2人を見ています。
「わかった。苦しかったね。よく耐えてくれた。ありがとう。
でもね。大恩人である両親のことを、そんなふうに言っちゃいけないよ。お父さんも、お母さんも神さまの一部なんです。
親への仕打ちは、いずれ必ずミドリさんとボクの身の上に襲いかかってくるからね」
「じゃ、どうすればいいの?」
お客さまの行列はなくなりません。
行列に並んだ若いカップルが、クリシュナさんとミドリさんの会話に耳をすましています。
カップルの女性のほうはうっとりとした目をしていました。
男性のほうは、目を輝かせています。クリシュナさんがどう答えるのか、興味津々なのでしょうか、クリシュナさんのほうへしきりと視線を送っていました。
行列からはみ出たお客さまがいます。
60歳くらいの男性です。酒に酔っているようで、フラフラした足取りで行列から外れてミドリさんの背後へ歩み寄っていきます。
そして、ミドリさんを手で横へ押しのけ、クリシュナさんに向かってこんなことを言いました。
「やい、ネパール野郎! お前、沖縄の女に手を出して、それで、そのままネパールへ、帰るんじゃねえだろうなぁ。さっきから聞いてたらよ。綺麗ごと並べてるけど、結局は、親が反対しているのを幸いに、この娘を捨てるんじゃないのか?」
クリシュナさんは、60男性に向かって、
「捨てたりしません」
と厳しい表情で言いました。
60の酔っ払いは、フラついています。
ヨタヨタと前に出てクリシュナさんにぶつかりそうになったり、後ろへよろけて陳列棚に手をついたりしました。
陳列棚からお菓子が床に落ちてしまいました。
60の酔っ払いはお菓子を拾おうとして手を伸ばすのですが、そのまま前のめりになって転んでしまいました。
「あ!」
とわたくしも、思わず声をあげてしまいました。
クリシュナさんは、レジカウンターから店内へと出ていきます。そして、60の酔っ払いを助け起こしました。
「大丈夫ですか?」
「おお」
60の酔っ払いは、先ほどの勇ましさはなく、消え入るような声で「もう、いいよ。ありがとう」と言ってクリシュナさんの手を払いました。
そのとき、
「キャー!」
とミドリさんの悲鳴が鳴り響きました。
背の高い黒人が「ハッピー、ニュー、イヤー」と言ってミドリさんをハグしていたのです。
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