霧の中の恋人たち

藤澤勇樹

プロローグ

 東京の片隅にある鈴ヶ森刑場跡。


 鈴ヶ森刑場跡は、ここで処刑された者の魂が集う場所として知られており、その歴史を感じさせるような静寂に包まれている。大学院生の晴は、江戸時代の刑罰制度に関する修士論文のため、この地を訪れていた。


 肌寒い秋風が頬をなで、枯れ葉の香りが鼻をくすぐる。


 鈴ヶ森刑場は、品川宿の南、東海道沿いに1651年建てられた幕府の御仕置場である。由比正雪の乱に加担した丸橋忠弥、徳川吉宗の落胤をかたった天一坊など有名な罪人が、ここで処刑された歴史がある。


 この鈴ヶ森刑場跡の敷地内で特に目立つのが「題目供養塔」である。


 題目供養塔は、3メートルを超す御影石にひげのような太筆の字体で「南無妙法蓮華経」の文字が深く彫りこまれており、その存在感は圧倒的だ。1689年の五代将軍綱吉の時代に、犬を傷つけた咎で処刑された一人息子を悼んで、母の法春比丘尼が建立したと言い伝えられている。


 晴は供養塔の冷たい表面に手を触れ、その滑らかさに歴史の重みを感じた。


 晴が、題目供養塔の前でたたずんでいると、白い靄が広がってきた。


 不思議な霧だ。周囲の景色が徐々に霞んでいく。湿った空気が肌を包み、かすかな線香の香りが漂う。


 その時、霧の向こうに人影が浮かび上がった。着物を着た若い女性が、まるで現代に迷い込んだかのようにたたずんでいる。彼女の姿は霧の中でぼんやりとしているが、不思議と鮮明に見える。


 女性は振り返り、晴と目が合った。彼女の瞳は深く、何か言いようのない悲しみを湛えているように見えた。


「あなたは…誰?」


 晴が尋ねると、女性は儚げに微笑んだ。その笑顔に、晴の心臓が高鳴る。


「私は結衣と申します。ここは私のよく知る場所なのです」


 結衣という名の女性は、まるで別の時代からやってきたかのような雰囲気を纏っていた。彼女の着物は鮮やかな青色で、晴の目を引いた。


 晴は戸惑いながらも、彼女に惹かれるものを感じずにはいられない。まるで見えない糸で結ばれているかのように、二人の間に不思議な感覚が芽生えていく。


 理性は「これは幻覚かもしれない」と警告するが、心は彼女の存在を強く感じていた。


 結衣は静かに話し始めた。自分がこの刑場で処刑された罪人の霊であること。それでも晴に会えたことを喜んでいると。彼女の声は柔らかく、まるで風鈴の音色のようだった。


「あなたとこうして出会えたのは、きっと何かの縁なのでしょう」


 結衣の言葉に、晴の胸は高鳴った。理性では信じがたい状況だったが、目の前の彼女の存在は紛れもない事実だ。


 彼女の着物から漂う微かな香りが、この出来事の現実味を増す。


 刑場を包む白い霧は、まるで二人だけの世界を作り出すかのよう。時間も場所も超えて、心が通じ合う感覚。晴は自分の研究が、単なる学問的興味を超えて、こんな形で過去とつながるとは思ってもみなかった。


 こうして二人は、霧に隠された特別な時間を過ごした。それは現代と過去をつなぐ、かけがえのないひと時。


 結衣は江戸時代の生活や、自分が処刑されるまでの経緯を語り、晴はそれを熱心に聞いた。その話は、晴の研究に新たな視点を与えるものだった。


 やがて霧が晴れていくと、結衣の姿は次第にぼんやりとしていく。晴は彼女の手を取ろうとしたが、それはすり抜けてしまった。


「また会いましょう、晴さん。必ず」


 そう言い残し、結衣は霧の中へと消えていった。その声は徐々に遠ざかり、やがて静寂だけが残った。


 果たして彼女は本当に霊だったのだろうか。それとも自分の想像が生み出した幻だったのか。


 晴は混乱した頭を抱えながらも、彼女との再会を心に誓い、足元に広がる霧を見つめるのだった。


 周囲の喧騒が戻ってくる中、彼は結衣との出会いを胸に秘め、新たな研究の視点を得た充実感と、言いようのない喪失感を同時に感じていた。

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