本編

 次の日から、来る日も来る日も、晴は刑場跡を訪れたが、結衣に再会することはできなかった。秋風が頬を撫で、枯れ葉が足元を舞う。


 その度に晴は、結衣との出会いが幻だったのではないかと不安に駆られた。


 しかしついに、夕暮れ時に刑場跡の「題目供養塔」の前に行くと、不思議な霧に包まれて、結衣と会うことができることがわかった。


 霧の中から現れる彼女の姿に、晴の心臓は高鳴った。


 それから結衣との時間は、晴にとって特別なものとなった。彼女の柔らかな微笑み、儚げな表情、そして時折見せる強い意志。全てが晴の心を捉えて離さない。


 結衣は冤罪で処刑されたと言う。その瞳に宿る悲しみに、晴は胸を締め付けられた。その真相を探るため、晴は彼女の生きた時代背景を研究する必要があると感じた。


 晴は、時代背景を知るために江戸時代の資料を丹念に読み解くことから始めた。


 図書館に通い詰め、古文書を解読する日々。そこには、庶民の生活の様子や、当時の裁判制度についての記述があった。


 埃っぽい紙の匂いを嗅ぎながら、資料を読み進めるうちに、江戸の世界に引き込まれていく。


「まるで、結衣さんと同じ時代を生きているような感覚だ」


 そんな想いを抱きながら、晴は研究を進めていった。古い文字に目を凝らし、時に頭を抱えながらも、彼は諦めなかった。


 一方、実生活では、晴は悩みを抱えていた。大学の講義に出席しながら、アルバイトにも励まなければならない。


 レポートの締め切りに追われ、睡眠時間を削る日々。


 疲労が蓄積していく中、友人との関係も、以前のように上手くいかなくなっていた。


 それでも、夕暮れ時、刑場跡での結衣と語る時間は、晴にとって特別なものだった。彼女の優しい声が、現実世界の苦労を忘れさせてくれる。


「晴さん、あなたに会えて本当に嬉しいです」


 結衣の言葉に、晴は喜びを感じずにはいられない。


 けれど同時に、もどかしさも覚えていた。


 触れることのできない存在に、惹かれているという現実が胸を締め付ける。


「結衣さん…。僕は君に何ができるだろう」


 晴のつぶやきに、結衣は儚げに微笑む。その表情に、晴の胸は痛んだ。


「今のあなたがそばにいてくれるだけで、幸せです。でも…」


 言葉を切り、結衣は遠くを見つめる。その眼差しに、晴は何か重要なことを感じ取った。


「私の無実を晴らすためにも、真実を調べて欲しいと思うのです」


 その願いを叶えるため、晴は再び古文書に向かう。目の疲れを感じながらも、彼は必死に文字を追った。


 ある日、重要な記述を見つける。結衣に不利な証言をした人物について、その経緯が記されているのだ。


 晴の心臓が高鳴る。


「これだ…!結衣さんの冤罪の証拠になるかもしれない」


 希望に胸を躍らせながら、晴はページをめくった。その時、研究室の扉が開く音がした。


「…また、君か。最近はずいぶんとここに入り浸っているみたいだね」


 現れたのは晴の指導教官、佐伯教授だった。その眼差しに、心配と苦笑いが混じっている。


「いえ、その…歴史研究に熱が入ってしまって」


 晴は言い訳をしようとしたが、うまく言葉が出てこない。


「ふむ。それは良いことだ。だが、君の本分は学業のはずだよ」


 苦笑いを浮かべながら、佐伯教授はそう忠告した。晴は返す言葉もなく、うなずくしかない。


 胸の内で、結衣との約束と現実の狭間で葛藤が生まれる。


 大学を後にし、いつものように刑場跡へと向かう。


 日が暮れかけた頃、結衣がぼんやりと姿を現した。その姿を見た瞬間、晴の心は和らいだ。


「晴さん…どうしたのですか?元気がないようですね」


 結衣の心配げな声に、晴は微笑んで答える。その声の温かさに、心が癒される。


「うん、ちょっと疲れているだけ。心配かけてごめんね」


 けれど本当は、結衣との時間と実生活の両立に悩んでいた。このままでは、どちらも中途半端になってしまう。


 自分は何を優先すべきなのか。その葛藤が、晴の心を蝕んでいく。


「晴さん、無理をしないでください。あなたには、あなたの人生があるのです」


 そう言って、結衣は晴の手に触れようとする。けれどその指は、スーッと手をすり抜けてしまう。


 その瞬間、二人の間にある越えられない壁を、改めて感じずにはいられなかった。


 儚さを感じながら、それでも晴は精一杯の笑顔を見せた。結衣を心配させたくない。その想いが、晴の表情を作る。


「大丈夫だよ。僕は結衣さんとの約束を守る。必ず君の無実を証明して見せるから」


 結衣は嬉しそうに頬を緩めると、こう言葉を紡いだ。その表情に、晴は心を奪われる。


「ありがとうございます。…あなたと出会えて、私は本当に幸せです」


 その時、いつもより濃い霧が二人を包み込んだ。指先がかすかに触れ合う感覚。温もりはないけれど、確かな手応えがあった。


 晴の心臓が高鳴る。


 現代と過去の狭間で揺れる想い。


 それでも確かに芽生えた、特別な絆。二人の間に流れる空気が、少しずつ変化していく。


 晴と結衣は、霧の中で見つめ合った。


 言葉にできない感情が、二人の間を行き交う。


 魂を結ぶ恋。今は儚くとも、いつかは結ばれる時が来ると信じて。


 その想いが、晴の心を支えていく。


 霧はやがて晴れ、結衣の姿は見えなくなっていく。


 その姿を見送りながら、晴の胸に決意が芽生える。


「また明日…。必ず会いに来るから」


 そう呟いて、晴は夜道を歩き出した。街灯の明かりが、彼の影を長く伸ばす。


 ◇◇◇


 古文書の山に埋もれる日々。


 晴の調査は着実に真相に近づいていた。目の疲れと戦いながら、彼は必死に文字を追う。


 江戸時代、結衣が冤罪に陥った背景には、権力者の陰謀があったらしい。


 彼女を陥れることで私腹を肥やしていた者がいたのだ。


 晴はその証拠を見つけるべく、資料を読み漁った。


 古い紙の匂いが鼻をつく中、彼の目は真実を求めて踊る。


「晴さん、そんなに無理をしては…」


 心配そうに見守る結衣に、晴は力強く微笑んだ。その笑顔の裏に隠された疲労を、結衣は見逃さない。


「平気だよ。君の無実を晴らすためなら、どんな苦労も厭わない」


 そして遂に、決定的な証拠を発見する。晴の手が震える。


 晴の手にした古文書には、驚くべき事実が記されていた。


 結衣を陥れたのは、当時の権力者が自分の悪事を隠蔽するため、無実の結衣を生贄にしたのだった。


 その事実を目の当たりにし、晴は怒りと悲しみを覚える。


「結衣さん…!これで君の無実を証明できる!」


 興奮する晴に、結衣は複雑な表情を浮かべる。その瞳に、喜びと共に何か別の感情が宿っているのを、晴は見逃さなかった。


「晴さん、あなたがここまでしてくれて、本当に感謝しています。けれど…」


「どうしたんだい?僕は君の味方だよ」


 そう言って結衣の手を取ろうとする。けれど指は、虚しく空を切った。その瞬間、二人の間にある現実を、改めて突きつけられる。


「私はもう、あの世の存在なのです」


 結衣の言葉に、晴は言葉を失う。


 その事実は知っていたはずなのに、胸が締め付けられる。


 それでも、彼は諦めるわけにはいかなかった。


 歴史の闇に葬られた結衣の無念を晴らすため、晴は権力者の子孫を訪ねる決意をする。その決意が、彼の瞳に強い光を宿らせる。


「必ず君の名誉を取り戻してみせる。僕は…君を好きなんだ」


 そう告げると、結衣の瞳に涙が浮かんだ。


 その涙に、晴は自分の想いが届いたことを感じる。


「ありがとう…晴さん。あなたに出会えたこと、私の誇りです」


 お互いに微笑み合うと、二人の魂が一つに結ばれた気がした。その瞬間、時空を超えた絆が、より強固なものになったように感じられた。


 ◇◇◇


 それから晴は、権力者の子孫への働きかけを始めた。


 古い書類の匂いが鼻をつく中、彼は幾度となく資料を整理し、説得の言葉を練った。


 最初は取り合ってもらえなかったが、晴は諦めなかった。


 結衣への愛を胸に、幾度も交渉を重ねる。


 その度に断られ、心が折れそうになっても、結衣の儚げな笑顔を思い出し、力を奮い立たせた。


 徐々に、晴の真摯な想いが相手に伝わっていった。


 幾日もの努力が、ついに実を結ぶ時が来た。


「私の祖先が、恥ずべき過ちを犯していたとは…」


 ついに権力者の子孫は、先祖の罪を認めたのだ。


 その瞬間、晴の胸に喜びと安堵が押し寄せた。


 江戸時代の冤罪が晴らされ、結衣の名誉は回復された。長い闇の中で苦しんできた彼女の魂に、ようやく光が差し込んだ瞬間だった。


「晴さん、本当にありがとうございました」


 目に涙を浮かべながら、結衣は晴に語りかける。


 その声には、深い感謝と喜びが溢れていた。


「結衣さん…」


 胸がいっぱいになり、晴は言葉を詰まらせる。


 彼女の無実を証明できた喜びと、別れの時が近づいている悲しみが、心の中で激しくぶつかり合う。


 穏やかな笑顔を浮かべながら、結衣は晴の頬に手を添えた。


 触れることはできないが、確かな温もりを感じる。


 その感触に、晴の心は震えた。


「晴さん、あなたと過ごした時間は、私の永遠の宝物です。けれど、もう私はこの世界に留まるわけにはいきません」


 それは、晴も覚悟していたことだった。


「わかっている…でも、結衣さんのことは絶対に忘れない。出会えた奇跡に、心から感謝しているよ」


 二人は見つめ合い、めいっぱい思いを伝え合う。


 言葉にできない感情が、二人の間を行き交う。


 初めて出会った時のように、濃密な霧が辺りを包み込んでいく。


「さようなら、晴さん。あなたと出会えたこと…心から嬉しく思います」


「結衣さん…君との思い出は、一生の宝物だ。君の冤罪を晴らせてよかった…!」


 最後の言葉を交わし、結衣の姿は霧の中へと溶けていった。その姿を見送る晴の目には、涙が溢れていた。


 霧が晴れると、鈴ヶ森刑場には、いつもの静けさが戻っていた。


 だがそこには今、目に見えぬ形で二人の絆が息づいている。


 晴はその空気を深く吸い込み、結衣との思い出を心に刻んだ。


 ◇◇◇


 鈴ヶ森刑場跡。かつて結衣の霊魂と出会ったこの地に、再び佇む晴。


 霧がたちこめる中、彼女との思い出が鮮やかによみがえる。


 枯れ葉の香りが、あの日の記憶を呼び覚ます。


「結衣さん、君は今もどこかで見守ってくれているんだろうか…」


 そんな想いを胸に、ペンを走らせる。


 結衣との不思議な縁。時空を超えて芽生えた恋。


 それは晴の人生を大きく変えた、かけがえのない体験だった。


 ペンを握る手に力が入る。


 やがてできあがった一編の物語。『霧の中の恋人たち』と題されたその小説は、多くの読者の心を打った。


 晴の想いが、言葉となって紙面に躍る。


 "主人公と霊の女性が織りなす、せつない中にも美しい恋物語"


 それは晴と結衣の軌跡であり、同時に晴の魂の叫びでもあった。


 読者の涙と共に、結衣への想いが広がっていく。


「これが僕にできる精一杯のことなんだ。結衣さんとの絆を、小説に書き留めておくことで、君は僕の中で永遠に生き続けるんだ」


 そう呟きながら、東京の喧噪に想いを馳せる。


 街の音が遠くに聞こえる中、晴の心は静かに結衣を想う。


 あの日の鈴ヶ森刑場。


 白い靄に包まれながら、結衣と語らった日々。温かな記憶が、心を包み込む。


 今でも彼の心の奥底で、結衣は生き続けている。


 その存在が、晴の創作の源となっている。


 霧の中で交わした約束。


 いつか彼女にまた巡り会える、そう信じて。その想いが、晴を支え続けている。


 ◇◇◇


 今日は久しぶりに、夕暮れ時に鈴ヶ森刑場を訪れた。


 刑場が佇む場所に着くと、懐かしい空気が、晴を包み込む。


 ここが、結衣と出会った場所。その思いが、胸を熱くする。


「…そろそろ、行くか」


 時計を見やると、晴は立ち上がった。


 心の中で結衣に語りかける。


「結衣さん、君との思い出を胸に、僕は前に進んでいるよ。だから安心して。これからも見守っていてくれ」


 そう言葉を紡ぎながら、晴は歩み出す。


 足音が、静かな空気を震わせる。


 そこへ濃い霧が、すうっと流れ込んでくる。湿った空気が、肌を撫でる。


「この感じ…まるであの日のように…」


 思わず息を飲む晴。心臓の鼓動が早くなる。


 すると、霧の向こうに人影が浮かび上がった。シルエットが少しずつ鮮明になっていく。


 まさか、と目を疑う。期待と不安が入り混じる。


 霧が晴れるにつれ、それは女性の姿となって現れた。


 着ている服は今時だが、まるで結衣のよう。その姿に、晴の心は大きく揺れる。


 いや、よく見れば、結衣とは少し違う。けれど、その面差しは驚くほどよく似ていた。不思議な既視感が、晴を包み込む。


「あの…どちら様ですか?」


 おそるおそる、晴が声をかける。声が少し震えている。


 女性は振り返ると、晴に気づいたようだ。その瞳に、晴は何かを感じ取る。


「初めまして。私は結衣と申します」


 その言葉に、晴は絶句した。耳を疑うような衝撃が、全身を走る。


 偶然の一致とは思えない、何かの因縁を感じずにはいられない。


 女性は晴に歩み寄ると、にっこりと微笑んだ。その笑顔に、晴の心は奪われる。


「こんなところで会うなんて、何か縁があるのかもしれませんね」


 優しい眼差し。穏やかな口調。


 まるで大切な人と再会したかのような、不思議な感覚。晴の中で、過去と現在が交錯する。


「そうですね。何かの縁なのかもしれませんね…」


 晴もつられるように笑みを浮かべる。その笑顔には、希望の光が宿っている。


 現代に生きる結衣。


 彼女との出会いは、新たな恋の始まりの予感。


 晴の心に、再び温かな光が差し込む。


(了)

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