第十三章 菜の花に淡雪吹かん

第65話

 頬にキスをされたのだ。

 ……と思う。


 そういうわけで、絃はいまだにあの夜のことを思い出すと、顔が赤くなる。


 しかし編集長の行動に、なんの意図があったのかさっぱりわからない。


 ちんぷんかんぷんなまま日が過ぎていき、気がつけばカレンダーに如月と書かれている。


 二月の寒さは厳しい。骨にまで届くような朝晩の冷え込みに、気が滅入りそうになる。雪が降らないのが不思議なくらいだ。


 それから二月の中頃になるまで、絃は身が裂けるような忙しさを経験することになる。


 春節と同時に訪れる観光客の数は膨大で、英語対応はおのずと増える。


 朝から晩までいろいろな所を案内し、クタクタになって帰るので、居酒屋に行ける日はほとんどない。


 帰宅後にも仕事の整理をしなくてはならず、明日の用意をするだけで、精一杯の日々だ。


 だか、その忙しさのおかげで、わずらわしいことは考えなくて良かった。


 編集長のことを忘れてしまうくらいに、あっという間に日々が過ぎていく。それは、今の絃にとって幸いなことだ。


 笠井にも返事をしなくてはと思っていたのだが、当人は中国語がわかるため、てんてこまいになっている。


 俺のことを考えるのはあとにしてくれ、と顔に書いてあるようで、話しかけづらいくらいだ。


 笠井のことを考えてみたけれど、けど、うまく言葉にできない。


 笠井は笠井で、それ以上でもそれ以下でもなかった。好きかと言えば同僚としては好ましいが、恋愛や結婚というとそこで思考停止してしまう。


 つきあってみれば変わるかもと思う反面、可能であれば、その相手は編集長がいいと思う。


 それが絃の答えだ。


 お祭り騒ぎのような春節の週間が過ぎ、さらに一週間、まともに夕ご飯を食べる間もなく布団にもぐりこむような日が続く。


 休日ともなれば、栄養補給とマッサージと寝だめが大事だ。それに、答えられなかった質問を調べることや、勉強だって欠かせない。


 繁忙期のあとはしばらくほっとできるのだし、いつもこれくらいへっちゃらだ。逆に、気合が入るというものだ。


「来週には、居酒屋に行ける……楽しみ」


 次に行ったらなにを食べようかなと考えるとワクワクする。


 気がつけば短い二月も終わりが迫ってきているのだから、メニューもきっと変わっているはずだ。それを楽しみに、絃は早く寝ようと布団の中で深呼吸をした。


 きっと、編集長にも会える。


 でも、あのフレンチ以来まともに話したり会ったりしているわけじゃないので、緊張してしまうかもしれない。


 頬に落とされた唇の意味を、絃はまだわかりかねているままだ。



 *



「絃ちゃんいらっしゃい。久しぶりやなあ」

「大将、こんばんは。やっと来れました」

「待ちかねてたで。わしも、編集長も」


 カウンターを見れば、オシャレな眼鏡をかけた紳士ににっこりと微笑まれる。


「こんばんは、絃さん」


 ほんの少しだけ語尾がかすれる声で、名前を呼ばれた。編集長の声に、急に懐かしさが込み上げてくる。


 たかだか数週間、日数にして数十日会わなかっただけで懐かしく思えるほど、冬の間中、頻繁に顔を合わしていたのだと気付いた。


「こんばんは、編集長」


 絃はコートをハンガーにかけると、編集長の隣に腰を下ろした。


 大将が持ってきてくれたおしぼりに、躊躇いなく顔をうずめる。


 心臓がぎゅっとするような切なさが込み上げてきて、思わず泣きそうになったのを隠す。しばらくそうやって、おしぼりに鼻チョコな自分を隠してもらっていた。


「タイの昆布締めと、菜の花の和え物です」


 絃が落ち着きを取り戻していると、隣からポツンと言葉が投げられる。


 顔をあげてそちらを見れば、編集長が嬉しそうにしていた。


「はい?」

「僕が頼んだものです。絃さんも、同じでしょう?」


 それにうなずくと、編集長が大将に「僕と同じものを絃さんに」と伝えている。


 大将が「はいよ」と頷くのがまるで幻想のように思えた。疲れがどっぷりとあふれ出してきたのを感じ、よっぽど自分は忙しく仕事をしていたのだとわかった。

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