第64話

 おちょこをかつんと交わらせて、熱燗を喉奥に流し込む。鼻から抜けていく日本酒の香りに、くらりときた。


 ぽつりぽつりと話をしながら、あん肝をつまんでいると、結局いつもの帰宅時間になってしまう。


 冗談でご馳走になりますと言ったのに、編集長が支払いをしてくれた。


 日中は暖かかったのに、夜になって押し寄せてくる冷え込みは厳しい。


 お酒とあん肝で温まった身体の熱を、一瞬で冬が奪い去っていく。


「編集長、今日はお誘いくださってありがとうございました」


 帰り際にお辞儀をすると、編集長はいつものように穏やかに微笑む。その瞳は優しさにあふれている。見つめられると、胸のあたりがざわついてしまう。


 帰ろうと踵を返したところで、編集長が絃の名前を呼んで手を掴んだ。


「はい?」


 振り返ると、いつもよりもほんの少しだけ、真面目くさった顔をした編集長が立っている。


 編集長の手から伝わる温もりに、急に胸が締めつけられた。


「絃さん」


 編集長がもういちどつぶやいて、一歩絃に近寄る。見上げるほど大きなその影が目の前に迫ってきた。


「僕はね、絃さん――」


 口を引き結ぶと、編集長は絃の頬に手を添えた。


 絃の頬に、一瞬だけ彼の唇が触れた。驚きすぎて固まった絃の唇に、編集長の指がちょこんと乗せられた。


「おやすみなさい、絃さん」

「え? あ、おやすみなさい、編集長」


 訳がわからないままぺこりとお辞儀をして、踵を返す。


 なんだったのだと思いながら、しばらくゆっくり歩いていた。


 そして編集長の唇が触れた頬に触ってみてやっと、自分の心臓が早鐘のようになっていることに気がつく。


 絃は駆け出した。


「え、なんで、どうして……?」


 家までできる限りの力で走った。全速力とはいかないものの、夜を駆けた。


 家に到着すると、すぐにお風呂に入った。


 さっぱりしたはずなのに、寝る時になるまで胸のザワザワがおさまらない。布団に入っても、いまだに唇の感触が残っているかのようで、絃は目が冴えてしまった。


「だから、なんで……?」


 からかっていたじゃないか。あんなに楽しそうに、からかっていたくせに。


 急に真面目な顔で、触れてきた。


 絃は思い返すだけで、顔中が火照ってくる。


「……ずるい、編集長」


 ずるい、ずるい。


 それしか出てこなくて、布団を頭からすっぽりとかぶって、猫みたいに丸くなった。


 そうすれば、少しは安心して眠れそうだった。


「期待させないでよ」


 文句は、編集長には届かない。言ったところで、かわされてしまうかもしれない。それでもずるい、と絃は再度こぼした。


 眠れない気持ちを押しやって、無理やり目をつぶる。編集長のまじめくさった顔を、瞼の裏から追い出した。


 あん肝と熱燗で晩酌する夢でも見よう。一人でめいっぱい食べて飲むんだ。そう決めて、バクバクする胸を押さえながら、絃はぎゅっと身体を丸めた。

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