第63話

 楽しい会話に美味しい食事をしていると、時間はあっという間に過ぎてしまっていた。お心づけをいただいたということで、今回絃は、気兼ねなくごちそうになることにした。


 その代わり、誰かと一緒に食事をしているという証拠写真を提供したのだから、貸し借りなしだ。


 だが、女性と行ってほしいという編集長の両親の願いを踏みにじってしまったような気になってしまう。


 絃はフレンチのお店をあとにしてから、なんだかばつが悪くなってきた。


「やっぱり、ちゃんとしたお相手と行ったほうが良かったかと……」

「先ほども言いましたけど。僕は絃さん以外の女性とは、プライベートで食事をしたくないんですよ」

「それは、私としては光栄ですが。なんというか、親御さんに申し訳なくて」


 外気の風の冷たさに、一瞬で酔いが冷めてくる。


 信号を見つめながら瞬きをしていると、ふと編集長が絃を覗き込んできた。


「あん肝のカルパッチョが食べたいです。絃さんは?」


 話題を変えられてしまい、絃は口を尖らせた。


「どうして編集長は、美味しいもので誘ってくるのが上手なんですか……よだれ出てきました」

「行きましょう。ちょっとだけ熱燗も飲んで、〆ましょう」


 言われてまた差し出された腕に、絃はちょっとムッとしていたので強めに抱きついた。


 編集長は気にすることなく、どうでもいいことをずっと話している。


 なにを考えているのかさっぱりわからないし、いいようにあしらわれている気もする。


 でも、編集長は自分のことが嫌いではない。それだけは明確に理解できていたし、彼の特別枠に入っていることが、ちょっと嬉しい。


「洋食のあとで和食はちょっと気が引けますが、カルパッチョなら爽やかかつポン酢で満足できそうですし、お酒も美味しいですよね」


 なんなんだろう、今日は。


 編集長にいつも以上に吞まれっぱなしの気がしてならない。


 しらふになった時に、今日のあれこれを思い出さないようにしたい。そうでなければ、動揺するのは目に見えてわかっていた。


 なので、あん肝と美味しい熱燗でお清めして、明日にはきれいさっぱり忘れてしまおうと心に誓う。


 二軒目は編集長の滞在しているホテルの近くの店だ。


 気軽な雰囲気の創作居酒屋で、門構えを見た瞬間に肩の力が抜けていく。


「絃さん、こっちのほうが安心って顔していますよ」

「こういうほうが好きなんですよ」


 入店し、すぐにあん肝のカルパッチョと熱燗を注文する。編集長が、おちょこ二つでと言ったので、絃は目を細めた。


「編集長、私のお酒です」

「今日は僕と半分こです。深酒になってしまいます。それに、ちゃんぽんは酔いますよ、絃さん」


 伸ばされた手が絃の頬に触れた。驚いたのは、編集長の指先が冷たかったからだ。


「珍しくこんなに赤くなっていますから、ダメです、老婆心です。愚痴は後日聞きますね」


 絃は黙ってうなずく。


 しばらくしてお酒とあん肝が運ばれてきて、やっとこれで日本酒にありつけると意気揚々としてしまっていた。


 あん肝は美しい。見た目にもオレンジ色で、まるで宝石のようだ。


 さらに、白身魚に小ネギ、カイワレが添えられていて、ポン酢の芳しい香りに全身が震えるほど喜んでいるのがわかる。


 お箸で大事にすくいとって口に入れ、絃はうーんと唸った。


 酸っぱさと程よい塩気、そしてあとから来るあん肝の濃厚な美味しさ。素晴らしいとしか言えない。


「美味しい……これだけでもう、大満足です」

「やっぱり絃さん、こっちのほうが美味しそうに食べますね」


 絃は肩をすくめた。


「編集長のおごりですから。美味しくないわけないです」

「あはは、そうですね。たくさん食べてください。明日も、いっぱいお仕事しなくちゃですから」


 気が緩んだのはあん肝のせいだ。

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