第62話
たとえそうだとしても、編集長と味の好みが一緒なのは、絃だけではないはずだ。
「あと、美味しいお酒。これがまた大事なんです、僕にとって」
絃はそれに大いに納得する。
編集長はグルメだ。絃が知る中で、恐らく一番グルメで、味の好みが近い。
「そうですよね、命の水ですものね」
「飲まないと、僕は死んでしまいます」
「それは大げさですが、気持ちはわかりますよ」
「僕は、甘いお酒は苦手なんです」
それはつまりどういうことだと絃が首をかしげると、編集長はワインをゆらゆらと揺すった。
「甘いお酒や飲みやすいお酒が好きな女性はたくさんいますが、僕の好みのお酒を一緒に楽しめる人は、絃さんしかいないということです」
編集長は、食事だけでなくお酒も同じくらい好きで大事にしている。
日本酒が好きという硬派な一面も共有できるのは、編集長にとって今は絃が一番なのだ。
「それは光栄です」
なんとなく、口説かれているような気になってしまうのはどうしてだろうか。
絃は頬が熱くなってきてしまい、慌てて編集長から視線を逸らした。
丁度よくフルーティーなソーセージがやってきてくれて、絃は無心でそれにかぶりつくことにした。
*
いつもはカウンターに並んで、日本酒にお刺身をつついているのに、フレンチレストランに居るのが不思議だ。
なんだか楽しくなってきたのは、甘いお酒に酔ってしまったせいかもしれない。絃はほろ酔いになりながら、牛肉の煮込みを口にした。
「編集長は、恋とかするんですか?」
口からポロリと漏らした質問に、絃自身が驚いた。しかし、いまさら撤回もできず、あくまでも平然を装って編集長を見る。
「お酒に毎日恋していますよ」
軽やかにかわされてしまい、絃は面白くないなと口をとがらせる。
「そうじゃなくて。今、誰かに恋していますか?」
これは良くない。おかしな絡みかたをしてしまうのは、きっとこのスパークリングワインのせいに違いない。
恨みがましくワインのグラスを睨んでいたところで、編集長が口を開いた。
「目の前に座っている女性に、儚くも恋心をよせています」
絃はブレッドを落としかけて、慌ててもう一方の手でキャッチした。平静をよそおっていたのに、動揺しすぎだ。
絃が慌てふためいていると、編集長はくすくす笑い始める。
「そう言われたら、絃さんはどうするんですか?」
「……編集長。からかいましたね」
絃はブレッドを口の中へ押し込んだ。
二度と口をきかないと言わんばかりに、眉間にしわを寄せる。
「からかっていませんよ。どうです、なんて答えます?」
「考えておきます」
ムッとしながら、今度は牛肉の煮込みをつけて口に運ぶ。
牛肉味のソースが、贅沢で濃厚な味わいを舌の上で披露する。たっぷりのハーブが心地好い深みを出しており、しつこくない後味が素晴らしい。
結局、恋の話題はそこまでになってしまい、編集長のいつもの独白が始まる。
美味しいフキの佃煮の話をされて、春が待ち遠しいと喉が鳴った。
「ダメですね。フレンチを楽しんでいる時に、フキの佃煮の話をしてしまうなんて」
どんなに美味しいお料理でも、やっぱり日本食にはかなわない。編集長は困ったように苦笑いをしていた。
「一周回って、日本食に戻ってきてしまいます。世界中ふらふらしていたけれど、結果的に日本に住むことに決めてしまいましたから」
編集長が昔話をするのは珍しい。
世界中をほっつき歩いていた時の話を、絃は黙って聞いていた。
フレンチが過去を思い起こさせるのか、甘いお酒がそうさせるのか。いつもより、編集長は饒舌だ。
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