第62話

 たとえそうだとしても、編集長と味の好みが一緒なのは、絃だけではないはずだ。


「あと、美味しいお酒。これがまた大事なんです、僕にとって」


 絃はそれに大いに納得する。

 編集長はグルメだ。絃が知る中で、恐らく一番グルメで、味の好みが近い。


「そうですよね、命の水ですものね」

「飲まないと、僕は死んでしまいます」

「それは大げさですが、気持ちはわかりますよ」

「僕は、甘いお酒は苦手なんです」


 それはつまりどういうことだと絃が首をかしげると、編集長はワインをゆらゆらと揺すった。


「甘いお酒や飲みやすいお酒が好きな女性はたくさんいますが、僕の好みのお酒を一緒に楽しめる人は、絃さんしかいないということです」


 編集長は、食事だけでなくお酒も同じくらい好きで大事にしている。


 日本酒が好きという硬派な一面も共有できるのは、編集長にとって今は絃が一番なのだ。


「それは光栄です」


 なんとなく、口説かれているような気になってしまうのはどうしてだろうか。


 絃は頬が熱くなってきてしまい、慌てて編集長から視線を逸らした。


 丁度よくフルーティーなソーセージがやってきてくれて、絃は無心でそれにかぶりつくことにした。





 いつもはカウンターに並んで、日本酒にお刺身をつついているのに、フレンチレストランに居るのが不思議だ。


 なんだか楽しくなってきたのは、甘いお酒に酔ってしまったせいかもしれない。絃はほろ酔いになりながら、牛肉の煮込みを口にした。


「編集長は、恋とかするんですか?」


 口からポロリと漏らした質問に、絃自身が驚いた。しかし、いまさら撤回もできず、あくまでも平然を装って編集長を見る。


「お酒に毎日恋していますよ」


 軽やかにかわされてしまい、絃は面白くないなと口をとがらせる。


「そうじゃなくて。今、誰かに恋していますか?」


 これは良くない。おかしな絡みかたをしてしまうのは、きっとこのスパークリングワインのせいに違いない。


 恨みがましくワインのグラスを睨んでいたところで、編集長が口を開いた。


「目の前に座っている女性に、儚くも恋心をよせています」


 絃はブレッドを落としかけて、慌ててもう一方の手でキャッチした。平静をよそおっていたのに、動揺しすぎだ。


 絃が慌てふためいていると、編集長はくすくす笑い始める。


「そう言われたら、絃さんはどうするんですか?」

「……編集長。からかいましたね」


 絃はブレッドを口の中へ押し込んだ。


 二度と口をきかないと言わんばかりに、眉間にしわを寄せる。


「からかっていませんよ。どうです、なんて答えます?」

「考えておきます」


 ムッとしながら、今度は牛肉の煮込みをつけて口に運ぶ。


 牛肉味のソースが、贅沢で濃厚な味わいを舌の上で披露する。たっぷりのハーブが心地好い深みを出しており、しつこくない後味が素晴らしい。


 結局、恋の話題はそこまでになってしまい、編集長のいつもの独白が始まる。


 美味しいフキの佃煮の話をされて、春が待ち遠しいと喉が鳴った。


「ダメですね。フレンチを楽しんでいる時に、フキの佃煮の話をしてしまうなんて」


 どんなに美味しいお料理でも、やっぱり日本食にはかなわない。編集長は困ったように苦笑いをしていた。


「一周回って、日本食に戻ってきてしまいます。世界中ふらふらしていたけれど、結果的に日本に住むことに決めてしまいましたから」


 編集長が昔話をするのは珍しい。


 世界中をほっつき歩いていた時の話を、絃は黙って聞いていた。


 フレンチが過去を思い起こさせるのか、甘いお酒がそうさせるのか。いつもより、編集長は饒舌だ。

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