第66話
「あとで頼もうと思っていたんですが、今日はハマグリのお吸い物もあるらしいですよ」
もうそんな時期ですねと返事をしていると、編集長は上品にとっくりを傾けた。
その姿を見た瞬間、急に現実感が押し寄せてきた。日本酒が飲みたい。熱くて喉が焼けるようなのがいい。
仕事に追われて、もうずっとお酒を飲んでいない。ずっと休肝日をしていた。早く飲みたいなと思っていたところで、アツアツの熱燗がやってくる。
おちょこになみなみそそぎ入れる。
本当はすぐに口に入れたい気持ちを押し殺した。注ぎ終わって、目を二秒だけ閉じるといただきますと言う。
くいっと一気に流し込んだ日本酒は、とろけるような美味しさで、一瞬にして最高の気分にさせてくれる。
「…………はあ、幸せ」
たっぷり余韻に浸ってから、つき出しを口に入れた。
セリとささみを和えた小鉢は、柚子胡椒がピリリと引き締まって美味しい。これは、熱燗がすすむ味だ。
絃はさらにお酒をなみなみと注いで、一気に飲み干す。
「……はあ、もう、幸せすぎる」
「お疲れ様です、絃さん。忙しかったのでしょう。旧正で」
「はい、生きる屍となっていました」
「あはは、じゃあ今生き返りましたね」
いつもと変わらない編集長の様子に、絃は心の中で安堵する。今までモヤモヤしながら抱え込んでいた感情も、向けられた笑顔によってしゅるんと消えていく。
あっという間に一合をあけると、タイの昆布締めが来た隙に追加のアツアツを頼む。
自分でもペースが速いのはわかっていたのだが、今日はこのくらいがちょうど良さそうだ。
「絃さん、お酒飲むの速くないですか?」
「ええ、まあ」
お酒は楽しく気持ちよくなるために飲むものだ。
忙しさから解放された今日くらいは、たっぷり飲みたい。
「今日だけは見逃してやってください」
「いいですよ。じゃあ、僕と乾杯しましょう」
編集長とおちょこを合わせて、グイっと飲み干す。
タイミングよくタイの昆布締めが来たので、それに手を伸ばした。
ほどよく昆布の旨味が滲みこみ、タイ特有のプリプリの歯ごたえがたまらない。醤油ににじみ出る脂でさえ美しい。
「はあ、美味しい。本当に、美味しい」
「昆布締めは、元々、富山の発祥なんですよ。魚が美味しい地方というだけあって、素晴らしい発明だと思いませんか?」
いつもの独白が紡ぎだされて、絃はほっとすると同時に、あの時にあったことは実は幻か妄想の類だったのではないかと自分を疑い始めた。
「魚の旨味をぎゅっと閉じ込め、なおかつ、昆布の味がさらに美味しさを引き立てる……昔の人の知恵には、到底かないっこありません」
編集長はあの時のことを忘れてしまったのかもしれない。フレンチにあん肝で酔っぱらっていたので、きっとそうに違いない。
もしくは、頬にキスされたという幻を、絃だけが見たのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、菜の花の和え物が出てくる。それを見るなり、絃は口元が緩んだ。
「……きれい」
菜の花の縁に大根おろしの白が混じって、見た目から美しいハーモニーを奏でている。真っ白な大根は、さしずめ菜の花に降り積もった雪のようだった。
「みぞれ和えは冬の呼びかたです。もうすぐ春ですから、これはかすみ和えです」
編集長がふわりと笑いながら補足する。
「かすみ和え。なるほど」
「まるで淡雪を纏う菜の花のようです……美しくて、僕も食べるのを迷いました。でも、美味しかったですよ」
纏った大根おろしが崩れないように、細心の注意を払いながら口へ入れる。
大根おろしの辛みとともに、菜の花の柔らかい甘さとほんの少しの苦みがやってくる。口の中に、春が舞い込んできたような気分になった。
「もう、春になりますね。菜の花が出てくるなんて。淡雪の大根おろしも、すぐに解けます、春ですからね。大根おろしはまさに雪、白くてきれいで、なんにでもあう……僕は真白というのに、どうしてこうも違うんでしょうね。おろしがねで擂られてみたら、少しは変わりますかね」
懐かしいうんちくと独白に、絃の胸が締めつけられた。
「春ですね、編集長」
「ええ、春ですね」
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