第十二章 物憂いあん肝カルパッチョ

第60話

 たまには、フレンチでもいかがでしょうか。絃は編集長の誘い文句に驚いた。


「……フレンチですか?」

「ええ、フレンチでしゃれこみましょう」


 日本酒熱燗、つまみは色気無し。それが絃の晩酌風景であって、それを一番に理解していると思われる人物がそう言うものだから、確実に美味しいという裏付けがあるに決まっていた。


 そうでなければ、彼の口からフレンチなどという言葉が出てくるなんて、狐につままれたとしか思えない。


 フレンチを言い始めた張本人である編集長は、ニコニコといつもの優し気な笑みをちらつかせて、絃を誘ってくる。


「おしゃれなお店なんですよ」

「はあ……。まあ、編集長がそういうのなら」


 美味しくないわけがない。


 むしろ、絶対に美味しい。


 絃は眼鏡の奥の目元を確認してから、それほど時間をかけずに承諾していた。


 おしゃれなお店だということなので、約束の日には仕事終わりに一度帰宅をして、きれいな服に着替えた。


 待ち合わせ場所に到着すると、セミフォーマルに近い服装の編集長が待ち合わせ場所に立っている。ちょうど釣り合いの取れるような服装を選択できた自分に、内心安堵した。


「絃さん、お呼びたてしてしまって申し訳ないです。しかも、苦手な洋食に」

「編集長のお誘いですから、美味しいかと思いまして」

「信用されてなによりです」


 さりげなく腕を差し出されて、一瞬戸惑った。


 だが編集長の腕にそっと手を添えてみることにした。案外、好きだ好きだと思っていても、近づいて触れてみるとやっぱり気のせいだったということもある。


 確かめるように身体を少々寄せたが、嫌な感じはしなかった。


 ドキドキしている絃とは逆に、編集長はいつもの調子で話し始めている。ここちよいうんちくを聞きながら、誘われるままついていった。


 編集長の独白は面白いのだが、全部にうなずいているとらちが明かない。


 それに、あんまり熱心に聞き入ってしまったら、悪い魔法にでもかかってしまいそうな気がする。


 心までまるっと持っていかれてしまうように思えて、いつも慎重に聞くようにしていた。


 目的のお店まではそれほど遠くなく、外観を視界に入れた瞬間感嘆する。


 オシャレなお店だと言っていたが、本当に素敵な外観と雰囲気で感心してしまった。不味いわけがないと確信できる。


 フレンチに気分は上がりきっていなかったのだが、ワクワクしてきていた。


「編集長、今日はどうしてここに……?」

「中で話しますね」


 寒いのでと言われたため、ひとまず店内に足を踏み入れる。


 予約していた梶浦ですと編集長が伝えると、リザーブ席に案内される。シンプルモダンの落ち着いた雰囲気が心地よい。


 混雑していないのは、時刻が少し早いからかもしれない。


「アラカルトなんですよ、こちらのディナー。コースも選べましたけど、絃さんは選べるほうがお好きかと思って」


 さすがだと絃はうなずく。


 編集長と二人でアラカルトを見つめながら、まるで示し合わせたかのようにメニューが決まった。


 味の好みが一緒というのは、こういう時にどちらかが遠慮しなくていい。それは素晴らしいことだ。


「シャンパンで軽めがいいですかね?」

「そうします」


 オリーヴオイルを使う料理の時には、絃は軽いものをあっさりと飲む。


 編集長が見立てたスパークリングを飲むと、爽やかな口当たりが予想以上に美味しくて目がさえてくる。


「……たまにはいいでしょう、甘いお酒も」


 訊ねられて、素直に「はい」と答えていた。

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