第59話

「本音を聞けてほっとしたわ」


 母の言葉に絃は言葉にならなくて、じっと彼女の顔を見つめていた。


「いつもあなたはピリピリしていて、天邪鬼でね。どことなくイラついているけど。今の絃の顔はとってもいい顔してる」


 ちょっとだけ恥ずかしくなって、絃は両手で顔を覆い隠した。手のひらから、頬の熱が伝わってくる。


 母はずっとずっと、絃のことを理解し続けてくれていたのだ。そう思うと、胸が締め付けられるようだ。


 実家に帰ることを倦厭し、家族と遠ざかっていたことが悔やまれる。姉も妹も、ずっと絃のことを心配してくれていたに違いない。もちろん、父も。


「絃がいうのなら、いい人なんでしょう。楽しみなさい、あなたの人生を」

「うん。ありがとう」


 たまには連絡をしよう。電話もしよう。帰れるときには帰って、怖い顔の父親の顔を見よう。


 そう決めると、急に切なさが込み上げてきた。


「人からは、いっぱい学ぶことがあるわ。だから、あなたの気持ちを大事にね、絃」


 今なにかを言うと、涙が出てきそうだった。絃は涙を流すまいと、お茶を一気に流し込んだ。


「……ところで、どんな人なの?」

「えっと」


 母がまるで小学生のガキ大将のような、ニタニタした笑顔で絃を小突く。

「背は高いの? 年齢は? 職業は? 趣味はなに? 絃とはどこで知り合ったの!?」

「待って待って、質問多すぎ!」


 思わずツッコんでから、同時にケラケラと笑っていた。


 しばらくしてから母親が「絃もそうやってずっと笑っていなさいよ、可愛いんだから」とまくし立てる。


「恋してるからかしら、本当に可愛くなったわ」

「そんなに違う?」

「違う違う、雰囲気が良くなったわよ」


 ストレートに言われてしまって、絃は照れる。


 母が根掘り葉掘り編集長のことを聞いてくるものだから、これは話さないといつまでも居座られるだろうとわかり、絃は出会った経緯を話す。


 居酒屋で声をかけられ、飲みにいくたびに顔を合わせるようになったこと。お蕎麦も食べに出かけて、美味しいものとお酒が好きということ。


 色々話しているうちに、好きという気持ちが、どんどん固まっていく。編集長への思いが、しっかり実感できる。


 大まかにすべてを話し終えると、いつの間にか暗くなっていた。母親は大慌てで帰る準備を始める。


「また来るわ。じゃあね、絃。お料理美味しかった」

「次はちゃんと事前連絡を早めにお願い」


 バス停まで見送り、絃は家に入った。外はまだまだ寒い。震えながら玄関の姿見の前に立ち、絃は自分の顔を覗き込む。


「……そんなに、違う?」


 しばらく自分自身とにらめっこしてみたのだが、なにが変わったのかわからないので止めた。


 残ったピリ辛こんにゃくを頬張りながら、テレビを見ることにする。


 お酒は飲まない。休肝日も、ときどきは大事だ。


「編集長、好きです」


 言ってからこんにゃくを口に入れる。


 耳に編集長の甘ったるい声の残響が聞こえるような気がした。


 その瞬間。大きな唐辛子の輪切りを噛んでしまって、あまりの辛さに飛び上がった。

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