第53話

 強烈に、日本酒が飲みたくなってきたところで、すべて食べ終わった。


「私もやっぱり払うよ」

「あかんあかん。財布しまって。かっこつけさせてや」


 お会計で絃が財布を取り出すと、笠井はニコニコと笑う。


「外国やったら、男がおごるん多いやろ」

「ここは日本だもの」


 ムッとしている絃を引きさがらせて、あのなあ、と笠井がしかめっ面をした。


「俺と花館は、また話さんとやろ? わかった?」


 つまり、きちんと考えて返事をしてほしいということだ。


「じゃあ貸し一つね。必ず返すから」


 お店を出てごちそうになったお礼を伝え、手を振って別れようとした。

 その手をぐっと握られたので、絃はびっくりする。


「ほな、またな」


 すぐに放され、笠井はにこりと笑うと手を振って去って行った。


 彼の手は想像以上に熱かった。まるで、笠井の気持ちの端っこに触れたようだ。


 ぶわっと顔中が熱くなる。いろいろな感情が押し寄せてきて、お腹は空いていないのに、お酒とおつまみが恋しくなった。


「……熱燗が飲みたい」


 ラザニアもサラダも、ピッツァもおいしかった。でも、最後のしめくくりに日本酒が飲みたかった。


 さすがに飲みすぎだと牽制し、自宅に向かっていたのだがどうしても欲求を押さえることは難しかった。


 絃は自分の気持ちを整理するためにもと、適当な言い訳を考える。

 赤ちょうちんの灯る路地裏に、足を踏み入れていた。



 ***



「いらっしゃい――……あれ、絃ちゃん。遅かったなあ」


 お出汁の香りに包まれた店内に入って、深呼吸する。

 大将が絃の顔を見て、目をまん丸くした。


「どうした絃ちゃん、具合悪いんか?」

「いえ……大丈夫です」


 いつものカウンター席に腰かける。


 席を立っていた隣人が、店の奥からやってくるのを見るなり、絃は急に泣きたくなった。


「こんばんは、絃さん……焼き鳥盛り合わせを一緒にいかがですか?」


 絶妙に間があったのは、もしかすると絃の表情が暗かったからかもしれない。編集長は少々心配そうに首をかしげている。


「いただきます。一味つけてください」

「おや、珍しい。いつもは七味なのに」

「今日は辛いのがいいんです」


 それから熱燗と、サトイモの煮っころがしを頼む。


 オリーヴオイルとスパークリングワインが入ったお腹を、きつめの日本酒と醤油味でお清めしたかった。


「本日の絃さんは、なにやらけったいな表情をしていますね。ひとまず、熱燗を飲んで落ち着いたらよろしいかと」


 運ばれてきた熱燗を握りしめ、おちょこに色気なくなみなみと注ぐ姿を見ると、編集長はクスクス笑った。


 いただきますとお祈りするようにつぶやいて、一気に日本酒を流しいれた。


 我ながらあんまりな飲みかただなと思ったのだが、今日だけはそれでも良かった。


「はあああああ」

「あはは、すごいため息ですね」


 絃の様子がおかしいことに気付いたのか、もう食べ終わっているというのに編集長はおかわりのぬる燗を頼む。どうやら、絃のためにつきあってくれるらしい。


「……編集長、恋ってなんでしょう?」

「恋ですか?」

「そうです、恋です。恋」


 それに編集長は、ふむ、とうなずく。


 炭火で焼かれた焼き鳥が、香ばしすぎる香りとともにやってきた。ほかほかの焼き鳥を前に、二人はそれを串から外し始める。

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