第54話
「……憎たらしいんですよ、恋って。生活に入り込んできて、思考や行動を阻害する。そんな悪いやつが、恋です」
全部を串から外し終わったところで、編集長はニコッと笑ってみせる。
彼の笑顔に、絃は毒気を抜かれてしまった。
「憎らしい、悪いやつ……ですか?」
「そうですそうです。だって絃さん、そうでしょう。焼き鳥と熱燗が恋しくて、二軒目に来ちゃったでしょう?」
なんでもお見通しだったのかと、絃は編集長を恨めしく見上げだ。だが、まさしく図星で、まったくもってその通りだ。
「一軒目で満足できれば良かったのに、日本酒がよぎってしまう。美味しいおつまみを想像して、意識が飛んでしまう……日本酒熱燗とおつまみに恋する乙女ですね」
とりももを唐辛子で真っ赤になるまでコーティングしてから、絃はそれを口に入れる。あまりにも辛くて、ちょっと後悔した。
今度は適度な赤さに調節し、カシラのコリコリを噛んでいく。じんわりとやって来る炭火の味わいが、絃が切望していた味だった。
「ほら、さっきまでとは大違いです。いい顔で食べています……やっぱり絃さんは、根っからのお酒飲みです」
「……立派に日本酒に恋しているみたいです、私」
「知っていますよ。でも、自覚がないのも、恋ですね」
絃はうむむと唸りながらレバーを食べる。
ちょうどいい塩梅に焼かれているレバーは柔らかく、甘みが口の中にじゅわっと広がる。こってりとした味わいが絶妙で、熱燗にぴったりだった。
サトイモの煮っころがしを口の中へ入れて、この味だ、と思わず目をつぶって噛みしめた。
サクホクの歯ごたえに、やんわりと滲み込むお出汁の味がたまらない。鰹と昆布の出汁は、すべてのわだかまりを溶かしていくようだ。
やっと気持ちが落ち着いてきたので、編集長をまっすぐ見ることができた。
納得する答えだったかを聞かれて、絃はうなずく。
結局、恋だの愛だのはよくわからないが、日本酒とつまみには恋をしているのが理解できた。
「……なるほど」
絃は独り言ちて、サトイモをがつがつ食べた。日本酒で元気を取り戻した胃袋が活性化し始めてしまったため、鯛茶漬けを頼んだ。
しばらくしてから出てきた〆のお茶漬けに絃は感嘆の息を漏らす。
炙られた鯛は、身が引き締まりプリっと反り返っている。そこに、小口切りにした小ネギの縁が散る様は、まさしく芸術品だ。
海苔の香ばしい匂いに、上に乗せられた白ゴマが美しい。
「ああ……もうこれは……言葉にできない」
ふんわりと三つ葉が香り、小ネギのシャクシャクがアクセントとしてきいている。
あっさりしつつも濃厚なだし汁にひたされたご飯は、素晴らしいとしか言いようがない。
炙られた鯛の切り身を噛みしめると、さらりとした脂がにじみだしてくる。歯ごたえもプリプリで、申し分ない。
「こんなの、贅沢すぎる」
「いいじゃないですか、贅沢。素晴らしい恋ですね」
言われて絃は、プリプリの白身を箸先ですくい上げた。
つやつやで光沢のある表面を見つめながら、こんな風に引き締まった、大人の恋ならしてみたいとぼんやりと考える。
「編集長。私はすっかり、恋しているみたいです」
それに、編集長は優しく微笑む。絃はお茶漬けをゆっくり食べた。
気持ちがだんだん満ち足りていく。お腹も、心も、ほっこりしてくる。泣きたくなるような気持ちを、現状感じないくらい幸せでいっぱいに包まれていた。
編集長はすっかり食べ終わっているのに、絃に合わせてゆっくりお酒を飲んでいる。
「編集長も、焼き鳥は憎いですか?」
「はい。とっても」
笑った時の目元の皺に、彼の優しさがにじみ出ている。眼鏡の奥のやわらかいまなざしに安堵を感じていた。
「……それは良かったです」
絃はお茶漬けをするすると流し込んで、両手を合わせてパンと音を立てる。
ごちそうさまでしたと感謝をささげてから、にっこりと笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます