第50話

 冬の短い昼間が終わりを告げたことを知ったのは、二人とも満腹になった時だ。


 かあかあとカラスが鳴いていたと思っていたのに、窓の外は暗くなっている。時計を見れば十八時を過ぎていた。


「美味しいものを食べていると、時間が経つのが早いです」


 絃が時計の進み具合に驚いていると、満腹で苦しそうな編集長が、眼鏡をはずして目頭を押さえてつぶやいた。


「楽しい時間は早く過ぎ、退屈な時間は遅く過ぎる。絃さんの場合は、美味しいものを食べていると、時間がすぐ経ってしまうということですね」

「じゃあ、美味しいもの食べていると、私だけ老けちゃいますね」

「違いますよ、逆です逆」


 物理はわからないと言ったのだが、編集長細かく説明を始めてしまう。しかし、酔いが回ってきてしまい、まともに内容を聞けなかった。


「さて、そろそろ片付けようかと思うのですが……とその前に。絃さん、ちょっと来てください」


 編集長が立ち上がり、絃を手招きする。なんだろうとおこたから半身を引っ張り出し、台所にのそのそとついて行く。


「実はね、内緒で三つ買ったんです。カマンベールチーズ」


 冷蔵庫を開けた編集長は、いたずらっぽそうな顔をした。中に鎮座している純白の結晶を見て、絃ははははと笑ってしまった。


「フランスパンもまだあるし……絃さん、もう少し食べません?」

「そうですね。今日くらいは、食い倒れてもいいかな」


 編集長がスモークの準備を始めると、たちまちいい香りが漂ってくる。その間に絃は酔い覚ましにお茶を用意した。


 十五分ほど待てば、美味しい燻製カマンベールチーズが出来上がる。


 即席のスモーク器を見つめながら、編集長がぽつりとつぶやいた。


「……絃さんといると楽しい。僕は、帰りたくなくなってしまいます」


 泊っていってもいいですよと言おうとして、絃は口をつぐんだ。


 これ以上彼に近づいたら、きっと目の前のカマンベールチーズと同じように気持ちが溶け出して溢れてしまうだろう。


 それが、自分と編集長にとって、重荷になるのは避けたい。


 怖いというよりも、この気持ちも関係も大事にしたい気持ちが勝った。だから絃は、うなずくだけにとどめて目をつぶる。


 それだけで、絃の気持ちは編集長に伝わったようだ。


 彼の手が伸びてきて、絃の小指をぎゅっと握った。


「帰りたくないから、もう少し居座りますね」


 絃は「どうぞ」と微笑んだ。


 ――このままずっと、夜のままでいいのに。


 編集長のつぶやきを、絃は聞かなかったことにする。


(私もそう思います)


 絃は胸の中で返事をした。


 夜のままでいてほしいといくら願っても、時間は全世界で平等だ。だから、二人の想いくらいで世界が変わるわけはない。


 それでも、このままがいいと願ってしまいたくなる。


 これほど望んでしまうのは、恋心なのか、カマンベールチーズが美味しいからか。考えてみたが、唐突に酔いが回ってきて絃は思考を中断した。


 ただただ無言で、燻製の煙をじっと見つめていた。


 夜が……きっとすぐに更けてしまうであろう夜が始まる。

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