第49話

「できたてほやほやをいただきましょう。絃さん、お手伝いに、お野菜の用意までありがとうございます」

「とんでもないです。それより編集長、待ちきれないです」


 お互いの湯呑へなみなみとお酒をよそう。いただきますと言ってから、湯呑を小さく合わせた。カチン、という小さな音を聞いてからお酒を口へ運ぶ。


 芳醇、という言葉がぴったりのお酒だ。


 コクとまろやかさがちょうど良く、あとからフルーティーさもやって来る。それは深みのある香りだ。


 はじめて飲む古酒だったのだが、想像していたよりも美味しくて絃は目を丸くしていた。


「古酒ってこんなに美味しいんですね」


 でしょう、と編集長は嬉しそうにうなずいている。


「燻製だとワインを想像する人も多いでしょうが、僕は日本酒がいいので古酒にしてみました。フルーティーなものは燻製の味に負けてしまうけれど、このお味なら食事をより引き立たせてくれますね」

「びっくりです。それに、昼間から飲むなんて贅沢です」


 絃は上機嫌にホタテの燻製に箸を伸ばした。


 口に入れると、ぎゅっと凝縮されあt燻製の香りが広がる。あまりの美味しさに、複雑に眉をひそめてしまっていた。


「塩気が少しあって、角を取るような燻製の風味が美味しいです。お酒がどかどかすすんでしまうという意味で、大失敗です」

「あはは、僕にとっては嬉しい褒め言葉ですね。味玉も最高に美味しいですよ」


 絃はハッとして、すぐさま味玉を自分の取り皿に入れてキープする。一口お酒を飲んで心を落ち着かせ、真剣に味玉を口に入れる。


「んー!」


 思わず声が漏れ出てしまう。


 ぎゅっと目をつぶって、しっかり味を噛みしめた。絶対美味しいとわかっていたが、想像よりもはるかに美味だ。


「……私、これはおかわりです」

「ゆっくり食べようかと思いましたけど、どんどんいけそうですね」


 まだ三時前という明るい時間に燻製を作って、お酒を飲む。


 これぞ、大人だけができる休日の楽しみだ。


 働いたご褒美なのだ、と絃はウィンナーを口にしながら幸せを噛みしめる。


「燻製も魔法です。燻すなんて、一体だれが考えたんでしょうね」


 編集長がホタテを飲みこんでから口を開いた。


「臭みを取り、旨味を凝縮させ、香りで封じ込めてしまう。まるで、身体の中に自然を入れて浄化しているような、ナチュラルで優しい味わいです」


 編集長はうっとりと燻製たちを見つめている。絃は半分ほど彼の声を聞き流してしまうくらい、燻製に夢中になっていた。


 家の中でこんなに簡単に燻製ができるなんてと、絃は感動していた。これだったら、自分でもトライできそうと思うが、一人でするよりも二人のほうがきっと楽しいに違いない。


 おしゃべりしながら、うんちくを聞きながら、美しい言葉の独白を聞きながら。こうして一緒の時を過ごして美味しい食事をすると、生きている実感が湧いた。


「絃さん。カマンベール、いっちゃいません?」


 オレンジの入ったサラダで口直ししたところで、編集長が瞳をキラキラさせながら立ち上がる。


「カマンベール食べたいです!」


 座っていていいと言われたのだが、気になってしまったので台所まで見に行くと、金網にお行儀よく白くて丸いチーズが並んで乗せられた。


 ぜいたくに、まるまる一個のカマンベールチーズを一人一つずつ用意してある。


 編集長が蓋をするまで、純白の結晶から絃は視線をそらせなかった。


「では、燻製が終わるまでもう少々お待ちくださいね」


 美味しくスモークされる時間でさえ楽しい。


 おこたで温まりながら、お酒をちょこちょこ飲んだ。


 ちょうどほろ酔いだと思う頃に、カマンベールチーズが出来上がってくる。


「最高過ぎます……匂いだけで、思考が止まりそうです」


 お皿に載せられたそれらは、ぷっくりと膨らみ素晴らしく芳しい。絃は思わず自分のぶんのチーズに鼻を近づけて匂いを堪能した。


「お味も、最高ですよきっと」


 蓋を開けるように、表面に切り込みを入れて上の部分を剥がす。中からとろーりアツアツのチーズが出てきて、贅沢な香りをまき散らした。


 編集長はパンを、絃はブロッコリーをたっぷりとチーズの湖に浸して口に入れる。


 この感情と味を表現するのに、世の中にそれを伝える手段がない。


「……あっぱれです。チーズも、スモークチップも、尊敬します」


 野菜とチーズの旨味を味わってから絃が口を開くと、編集長はおかしそうに笑った。


「そうですね、ここまで美味しくなってくれるとは僕も予想外でした」


 お酒もどんどんすすみ、チーズの中身はあっという間になくなってしまった。


 外側はフランスパンに載せて食べ、口直しのオレンジサラダがいい塩梅に食をうながしていく。

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