第九章 可惜夜(あたらよ)の燻製カマンベール
第47話
――関西の松の内は長いですよね。
そんな一言から始まった編集長の話に絃は耳を傾けた。
中心地を歩いていたところでばったり会ったのは、ついさっきのことだ。寒空の下で話し込むと風邪を引きかねないので、近くのコーヒーショップに立ち寄った。
「お正月が長いんですか?」
「ええ、関東では七日でお飾りを外します」
「せっかちですね」
ふふふ、と編集長はコーヒーを口に含む。
店内にはコーヒーのいい香りが漂っており、店に入るだけでもストレスが軽減されるような気持ちになる。シンプルで清潔なのと、よく見かけるようなチェーン店らしさがないのが気に入っていた。
絃も一杯ずつ丁寧に落としてくれるコーヒーが好きで、このお店にはちょこちょこ立ち寄る。
しかし誰かと一緒に入店したのは初めてだ。
ぽたぽた落とされるコーヒーを見ていると、編集長から「お正月ぶりですね」と微笑まれていた。
結局、初詣から家に戻ると、二人とも眠気の限界を迎えておこたで寝てしまった。
コートを着たままだったから良かったものの、明け方は冷え込みが激しかった。編集長に身体を揺さぶられて「風邪をひきますよ」と言われたのを覚えている。
彼を来客用の布団を敷いた部屋に案内し、絃は自室に下がって爆睡した。
起きた時にはとっくに初日の出が昇り切っていた。寝起きで編集長の髪の毛がもさもさしているのがほほえましくて、今でも思い出し笑いをしてしまう。
パジャマを着て眠そうな顔をしている編集長の姿を見られたのは、なんだか得をした気分になったものだ。
そのあと、元旦だというのにだらだら飲んで食べてグズグズしながら過ごした。
帰っていく彼を引きとめたい気持ちが押し寄せており、それをこらえて夕方近くに送り出したのが最後だ。
七草粥の日もとうに終わり、すでにお正月気分は薄れていた。
「絃さんは、良いお正月でしたか?」
「私は寝ていましたよ。家族とはテレビ電話で話をして……いつもと代わり映えしなかったです」
「僕もホテルと事務所の行き来と、お正月の取材に出かけたりです。いつも通りでした」
いつもと変わらないくらいがちょうどいいんですと、編集長は付け加える。それに絃は同意した。
変わらないということは、変わることだ。
変わらないで居続けるということは、変えていき続けているということだ。
本当になにも変わらなければ、時代に取り残されるのだから。
「おせち料理って、本当に美味しいですよね」
「お正月の話からおせちに思考が巡ったんですね」
編集長の突拍子もない話題替えに、そろそろ絃は慣れてき始めている。
一緒にいる時間が多いからというからではない。なぜ突拍子もない話題の振りかたをするのかを、年末に尋ねていたからだ。
編集長は、話をしている間に気になったトピックや言葉が出てくれば、それに連想される事柄をすぐにイメージしてしまうらしい。
トピック脳内で追いかけているうちに、自分の中だけで話が進んでいく。
そして彼の頭の中だけで進められた話の結果を口に出すので、話を聞いていた人は、突拍子もないように聞こえるという原理だそうだ。
頭の中で別のことをたくさん考えているというのだから、穏やかな見た目に反して、脳みそはガチガチにフル回転しているのだろう。
今さっき話していた話題から、あまりにもかけ離れたことを振られた時は、彼の原理を思い出すようにしている。
そんなに回転しすぎると身体に良くないと進言したこともあったが、三つ子の魂百まで、と言われてしまった。
つまり、小さい時からの癖なのだろう。
「おせちは美味しいですけど、ずっと同じだと飽きますよね」
小さめの市販のおせちを購入していた絃は、一人で食べるしかなかったため、一向に中身が減らなかった。
さらに言えば、観光案内で動き回っているわけでもないのでお腹は減らない。そんな悪循環で、食べ終わってはいたがおせちには若干飽きていた。
「味変しにくいというところに、飽きを感じさせてしまうのでしょう。絃さん――燻製、食べたくないですか?」
絃の目がキラキラしていたのだろう。編集長が爽やかに口の端を持ち上げた。
「燻製を作って一緒に食べませんか?」
「作るんですか?」
「簡単というか、時短バージョンですが」
「食べます」
絃は間髪入れずに返事をする。
燻製は言わずもがなお気に入りだ。甘いおせちにちょっぴり飽きた胃袋が、燻製を欲して今すぐぐうぐう鳴りそうだ。
「燻製は好きです」
「だと思ったから、お誘いしました」
断言されてしまい、絃は肩をすくめる。
スケジュールを確認してすぐに日程を合わせた。一瞬で、次の休みが待ち遠しくなる。
美味しい食べ物と編集長は罠だ。
もうすっかりと罠にはまってしまっている気がするのだが、絃はそれでもいいやと思うのだった。
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