第46話

 食べ終わって満腹になったのだが、しゃべっているとなにか食べたくなってしまうものだ。


 ミカンがあったのを思い出し、それをつまみ代わりに食後もゆっくり過ごす。

 お店でしゃべるよりも、多くの笑い声が混じる。これから新しい年がやって来るという、ワクワクした気持ちが笑顔を多くする。


「いつの間にかもう夜で……あと少しで、年が明けますね」


 窓の外に視線を向けてから絃がつぶやくと、編集長は時計を確認して驚いた顔をする。


「早いですね。言ってくれなかったら、年が明けたことも気がつかなかったかもしれません」


 大げさだなと思いつつも、寺の様子に切り替わったテレビ画面を見つめた。


 編集長が眼鏡をはずして目元をマッサージしていると、ゴーンという鐘の音が窓の外から聞こえてきた。


「除夜の鐘が、鳴っていますね」

「この辺りはお寺が多いですしね。整理券が配られるんですよね、それで、つきたい人は鐘がつける……煩悩がなくなったらこの世界は平和でしょうけど」


 絃のそれに編集長は首を横に振った。


「そんなことしたら、面白みもなくなります。お酒も飲めなくなりますよ」

「それは断じてよくありません。煩悩まみれでいいです、私」


 さらにゴーンという音が聞こえてきて、顔を見合わせながら笑ってしまう。新年のカウントダウンする様子が画面に映し出され、カチン、と時計の針が動いた。


「絃さん、明けましておめでとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いします」


 編集長が深々とお辞儀をしたあとに、にっこりと微笑む。絃もお辞儀とあいさつを返した。


「それにしても不思議ですよね、十二時って」


 絃の言葉に、編集長が耳を傾ける。


「一秒前まで今日だったのに、一秒後には、昨日になっている。ほんの少し前までは明日だったのに、いつの間にか今日になっている……なにかが変わったわけでもなくて、ただ、時計の針が動いただけなのに」


 時の流れに、狭間がないのが十二時だと感じる。


 一瞬で世界が変わる感覚がする。


 そんなことを伝えると、編集長は優しそうな瞳を緩めて絃を見てくる。


「一秒で世界が変わっちゃうんだって、いつも思うんですよ。自分は昨日だった気配も、今日になったことも感じられていないのに」


 絃さんと名前を呼ばれて顔を上げると、編集長がまじめくさった顔をしている。


「絃さん、初詣に行きましょう」

「はい?」

「初詣です、初詣」


 言うや否や、編集長はゆっくり立ち上がる。


「え、今から行くんですか? 混みますよ?」

「いいんです。今日という瞬間を、絃さんと味わいたいです」


 おこたから引っ張り出そうと、編集長が絃の手をぐいぐい引っ張る。断ることをあきらめ、絃も支度を整える。


 恐ろしく冷え込む夜だった。

 雪こそ降らないものの、空気が凍てついていた。


「いいですね、このお家は。神社もお寺も近くて」

「おかげさまで。神使のお鹿様たちまで近くにいますけれどね」


 暗い夜道を歩いていると、ガサゴソと音が聞こえて鹿が現れる。ほらね、と絃が視線で訴えると、たしかにと編集長は笑った。


 二人でぷらぷらと夜の町を進んだ。


 有名な神社は大変な混雑具合で、人混みに紛れながら参拝を済ませる。すっかり身体も冷えて、酔いもさめてしまっていた。


「熱心に祈っていましたけど、絃さんはなにをお願いしたんですか?」

「健康と長生きと、美味しいお酒に出会えるように」

「あはは、それは傑作です」

「そういう編集長は?」

「僕は、今年も絃さんと仲良くできるようにお願いしました」


 あまりにも想像していなかった答えに絃は驚いていると、甘酒があると言われて引っ張られる。


 そんなお願い事を神様にしなくとも、仲良くするくらいいくらでもするのに。

 むしろ、仲良くしたいのは自分のほうだ。


「あれ、絃さん眠いですか?」

「いえ、大丈夫です」


 両手で顔を覆い隠していると、編集長が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 編集長と仲良くしたい。それに気がついた恥ずかしさで、絃は真っ赤になっていた。


「絃さん、甘酒」


 反射的に手を差し伸べると、温かい甘酒を渡された。湯気が目に沁みるが、立ち止まって中を覗く。


 真っ白で粒々とした液体が、やんわりとたゆたっている。

 お酒のいい香りを吸い込むと、全身が浄化されていくような錯覚になった。


「……甘い」


 一口含んで、絃は漏らす。


 甘くて白くて、絃の身体の中に入ってもその熱を保っている。

 喉を通過し、胃のあたりがホカホカしてくる。


 絃の隣にたたずみ、甘酒を見つめながら冷めるのを待つ編集長を見やる。

 猫舌なのでまだ甘酒にありつけていないのを横目に、絃はもう三口ほど口に含む。


「やっぱり、甘い」


 まるで、編集長みたいな甘さだ。

 白くて温かくて、人を優しさで包み込む。


 ずっと食べて飲んでをしていたせいか、彼の甘くかすれた声が耳にこびりついて離れない。


 残響を振り払おうともう一口飲むと、コップの中は空になってしまった。


 編集長はといえば、今やっと甘酒を飲み始めたところだ。


 絃は一歩だけ編集長に近づく。年が明ける、新しい一年の初めの日に一緒にいられる喜びを感じながら、深く息を吐いた。

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