第42話
酢モツを食べながら、今日のどこが良かったか、新しく知ったことなどを話しているうちにどんどん鍋の野菜がしんなりとしてくる。
「デートの〆がモツ鍋というのは、やっぱり色気が無かったでしょうか?」
「そんな……ええと」
素直に言うことができないが、おそらく二連休だというのも考慮して、普段は食べられないような香りの強いものを選んでくれたのだ。
編集長の優しさや、配慮というのは、絃にとって心地好い。それを伝えるための、適切な言葉が見当たらないまま、少しばかり困りつつ考える。
「私はオッケーです。むしろ、大歓迎のウェルカムで……言うなれば、色気より食い気というやつです」
絃が必死になって紡いだ答えに、編集長は満足したようだ。最後の「色気より食い気」で思い切り破顔している。
よっぽどおもしろかったのか、くつくつと笑い始め、そして最後は気持ちよくあははと声が出ていた。
「私、そんなに変なこと言いました?」
「いえいえ、必死な絃さんが珍しくてつい。ああ、もうそろそろ食べましょう。煮込みすぎると、モツが溶けちゃいます」
絃は膨れながら編集長にとんすいを突き出す。よそって下さいと目で訴えると、編集長はさらにおかしそうにしながら、キャベツとモツをこんもり盛り付けた。
これほどまで透き通って美しいモツを、絃は見たことがない。つやつやにきらめいて、まるで宝石のようだ。
編集長がよそい終わるのを待ってからいただきますと手を合わせ、箸をプリプリのモツへ伸ばす。
ふうふうしてから口の中にモツを入れて、絃は背筋をピンと正した。
「……美味しい、絃さん?」
答えられないほど美味しくて、首だけで感動を伝える。
モツは口の中でじゅわっと弾け、甘美な余韻を残してとろける美しい味わいだ。脂だというのに臭みが一つもなく、甘みが口の中に広がってくる。
第一陣をごくんと飲みこんでから、間髪入れずにキャベツと一緒にモツを口へ入れた。たっぷりの醤油だしが滲みついたキャベツは甘く、ニラの香味のアクセントがたまらない。
だしの味わいと野菜の優しさが、しんなりと口の中を潤していった。
「これは、編集長……美味しいどころの話じゃなくて、冬は週に二回は食べたくなります」
「そうでしょう。美味しいんですよ、モツ鍋は。たまらなく美味しいんです」
ささがきになっているゴボウも、いつまででも食べていたくなる懐かしい味わいがする。あまりにも美味しくて、言葉が一つも出てこない。
一杯目が終わるころ、お酒を追加する。モツ鍋は飲み物かもしれない。お酒もぐいぐいすすんでしまった。
鍋がすっかりなくなってきたところで、〆の麺を編集長が投入する。
ご飯と迷ったのだが、今日は麺の気分ということで卵色の中華麺がだし汁で泳ぎ始める。
「この〆もいけませんね。煮汁の旨味全部吸い込んじゃって、憎いやつです」
「編集長のおっしゃる通り、同感です」
ずずずとそれをすすって、絃は困ったように眉根を寄せる。美味しいものを食べる幸せを、全身で噛みしめていた。
夢中になって食べている時に、ふと視線を感じる。
正面を見ると、編集長が肘をつきながら穏やかな表情で絃を見ていた。
「……なにか、私の顔についてます?」
訊ねると、眼鏡の奥の目がゆうるりと揺れた。
「可愛いですね、絃さん」
絃は一瞬手を止めて、すぐに下を向いて麺をすすった。
もぐもぐと咀嚼して、聞かなかったことにしようと必死に抵抗してみる。しかし編集長の甘ったるくかすれる声が、耳にこびりついてしまっていた。
「……どうも」
関西人だというのに、いつだって話のオチもなければボケもかませない上に、こういう時のうまい返しが思いつかない。
我ながら、面白くない奴だと思ったのだが、編集長的にはそれでもいいようだ。証拠に、ニコニコしている彼はいつも以上に満足そうに見える。
もしかしたら、正面に座っているからそういう風に見えるだけかもしれない。
編集長は杯を干す。彼ののどぼとけが上下に動くのを、絃はぼんやり見つめた。そこから、編集長の独特の声が紡がれているのだなと思うとなんとも言えない気持ちになる。
甘ったるくかすれる声に、「絃さん」と名前を呼ばれるのを期待してしまう自分がいる。
もっと声が聞きたくて、絃は黙り込む。そうすると編集長はいつもうんちくを聞かせてくれるから。
食べ終わったら、編集長の独り言をを聞きながら帰ろう。そうして今日一日を終えたい。
「美味しいですね、絃さん」
「食事が美味しいのは、編集長と一緒に食べるからです」
はっきりと、彼の目を見てまっすぐに答えてみる。
ちっとも面白くないしひねりの一つもないような言葉だったけれど、絃の本心だ。想いが伝わったのか、編集長は今日一番楽しそうに笑っていた。
「僕もそう思いますよ」
絃さんと一緒だと楽しいですと、揺らぐ残像のように小さく言葉が紡がれる。
ずずずと麺をすすったせいで、最後に編集長がもう一度可愛いと言ってくれたのを、わざと聞き逃すふりができた。
きっともう、この気持ちはお互い同じ方向を向いているに違いないだろう。
それでもまだ、今の距離感と関係を楽しんでいたい。絃は麺を食べ終わると、勢いよく両手を合わせて「ごちそうさまでした」と力強く声を出した。
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