第39話
迎えに来ると言っていたので、車だろうと絃は予想を立てていた。
案の定、約束の時間より五分早く玄関先にシルバーの乗用車が停車する。編集長が下りてくる前に、絃は助手席側に回りこんでするりと車内に入った。
「こんにちは、絃さん。家の中で待っていてくれたら良かったのに」
寒かったでしょうと困ったように言われて、絃は「大丈夫です」と強がった。
しかし、本当はものすごく寒かったので、車内が暖かかったことにホッとして力が抜けた。
「嘘おっしゃい。鼻が赤くなっていますよ。はい、これ」
まるでお母さんみたいな台詞とともに渡されたのは、温かい紅茶のペットボトルだ。予想していなかったため、驚いてきょとんとしてしまう。
「あ、ありがとうございます……」
「温まっていてくださいね。では、出発します」
不意打ちの優しさに、心がときめいていた。寒い中待っているだろうと、絃の性格を考えて行動してくれる気持ちが嬉しい。
ありがたくペットボトルを手のひらで転がすと、温もりが手に移ってくる。
一口飲めば、ミルクティーの甘さがじんわりと心の中まで溶かしていくようだ。
「法隆寺なら、すぐ着きますね」
「そうですね、混んでいなければ……三〇分くらいでしょうか。今日は平日ですから、すいているといいです」
他愛のない話をしながら、窓の外を流れる景色を見ていると、あっという間に法隆寺に到着してしまう。
蕎麦を食べにいった山奥とは違い、法隆寺は意外にも都会の真ん中にある。
電車だとちょっと手間がかかるが、車であれば中心地からでもサクッと来ることができてしまうのだ。
駐車場に停車してから、まっすぐに寺に向かって門前町を歩く。
独特の空間が広がる世界遺産は、厳かさが空気にまで広がっているような感覚になる。息を吸うと、徳を積めたような気になるのだから不思議だ。
「編集長は、法隆寺はよく来るんですか?」
「個人的には来たことないですね。これが、初めてです」
「ということは、取材では来ているんですね」
絃の質問にうなずきながら、編集長が手を差し出してくる。
一瞬ドキンとしたのだが、絃が手を伸ばすと、やんわりと編集長の手に自分の手が包まれた。
「デートでお寺はさすがに渋かったですか?」
「いえ……いや、渋いです。編集長らしい」
思ったままを素直に伝えると、彼はニコニコ嬉しそうに笑った。
「柿くへば、です。食べ歩きしましょう」
絃が思わず口の端を緩めると、編集長がのぞき込んでくる。
満足そうな顔をしている編集長を見て、絃は彼にしてやられっぱなしだと肩をすくめた。
「食べ歩きの前に、せっかくなので、参拝してお腹を空かせましょうね」
編集長は、なんでもお見通しのようだ。絃は再度肩をすくめた。
「すでにペコペコですが。空腹の時のほうが、頭がさえるので参拝にはもってこいな気がします」
「食欲という煩悩を、どこまで消し去れるかの勝負ですね」
編集長が楽しそうなので、絃もいつもより浮足立っていた。チケットを購入し、いざ寺院の中に入る。
編集長がうんちくを語り始め、絃もガイドとしての知識をより掘り下げるために聞き入った。日本の歴史は古い。そして、長い。
そして法隆寺は、やっぱり奈良の名所らしく広かった。
「勉強になりますね。ここに聖徳太子がいたかと思うと感慨深いです」
歴史上の人物が住んでいた空間に、現代人である自分たちがいるなんてまるでタイムトラベルだ。
「いやあ、素晴らしいです」
「編集長、感想が少々雑になってきましたよ」
「ああ、そろそろ燃料切れで……そろそろ、美味しいものを食べにいきませんか?」
お腹をポンポンと叩きながら、編集長が人好きのする笑みを向けてきた。
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