第七章 柿くへばモツが呼ぶなり……

第38話

 編集長の忙しさのピークが過ぎたようだ。


 彼がいつものように赤ちょうちんの店に顔を出すようになったのは、もういくつ寝るとお正月という頃。


 頂点は過ぎたといっても、まだぼちぼちせわしないらしい。師走の前半のように、ぱったり顔を見ないというわけではないが、以前より見かける頻度は少ない。


 編集長の一升瓶は、あの雨の日の夜に、全部を飲み切ることはできなかった。

 そういうわけで、絃の家に置かれっぱなしになっている。


 うちはボトルキープする場所ではありません、と持って帰るように勧めたのだが、ちょっとだけホームステイさせてくださいと頼まれてしまっていた。


 雨もやまない中、大きな瓶を抱えて帰らせるのも可哀想に思えてしまい、絃は結局酒瓶を納戸の奥にしまっている。隣には自分用の一升瓶を並べておいた。


 仲良く並んだ酒瓶を見ると、嫌なことが忘れられるような気持ちだ。


 いつものように観光案内を終えて、絃はその日赤ちょうちんのお店に顔を出した。


「柿わさ、つぶ貝、おでん大根の唐揚げをお願いします」


 三品を頼み終わったところで、背の高い来店客が絃の隣に腰を下ろした。彼はメニューに目を通すと、先ほど絃が頼んだ品物と似たようなのを注文する。


「おでん大根の唐揚げ、柿わさ、ピリ辛こんにゃくとつぶ貝」


 オーダーし終わったところで、編集長は絃に向きなおってほほ笑んだ。


「こんばんは、絃さん。熱燗は頼みましたか?」

「もちろんです。編集長はぬる燗を頼まないんですか?」

「今からです」


 彼の甘ったるい声を聞くと、胸のあたりがざわざわする。

 編集長を慕う気持ちが、絃の中に芽生えている。ちょっとずつその想いは成長しているような気がする。


 恋をすると、臆病になる。


 ……だから恋はしたくない。でも、止めるには遅いくらい、気持ちがむくむくと大きくなってしまうので困っている。


 迷いや煩いを吹き飛ばすべく、絃は出された熱燗をごくごく飲み干した。


「はい、絃ちゃん。柿わさ」

「ありがとうございます」


 大将がニコニコしながら、柿わさを隣の席にも同時に置く。


 絃は美濃焼の小鉢を手元に引き寄せて、わさびと醤油の香りを楽しんだ。それから、箸の先で細切りにされただいだい色の柿をつまむ。


 口に入れると、醤油とわさびのしょっ辛さのあとに、柿独特の甘く芳しい味が広がる。


 口の中で柔らかくとけていく部分と、シャクシャクと噛み応えのある部分があり、箸が止まらなくなってしまう。


 初めて柿わさを知ったときには、フルーツが醤油とわさびと仲良くできるはずはないと鼻で笑う勢いだった。そのあとすぐに、自分が愚かであることを知った。


 このなんとも言えない味を知ってしまってからは、もう後戻りができなくなってしまっている。


 美味しいお酒を飲むのに、これ以上ぴったりな一品はないとさえ思える、絶妙なおつまみ感がたまらない。


「……柿は、本当にお醤油と相性がいいですね。柿のピッツァなんかも、僕は大好きなんですよ。ガーリックとチーズとも、素晴らしい組み合わせです」

「柿のピッツァは、初めて聞きました」


 隣から聞こえてきた声に、絃は自然と返事をしていた。


「おやつにもピッタリなので、ついつい食べ過ぎてしまうというトリックにハマります。柿の素晴らしさは、人を飽きさせないというところでしょうか」


 編集長のうんちくが始まり、絃はそれを聞きながらお酒を楽しむ。編集長の独り言も、じゅうぶん人を飽きさせない。


「絃さんなら大好きだと思いますよ。今度、作って差し上げましょう」


 よろしくお願いしますと言うと、編集長が一瞬驚いた顔をしたが、すぐに満足そうに目元が緩んでいた。


 次に運ばれてきたのはおでん大根の唐揚げだ。熱いのが好きな絃は、ソースのかかったそれに、すぐかぶりついた。


 サクッとした噛み応えのあと、おでんのつゆに浸されていた大根からじゅんわりと出汁の香りが広がってくる。ちょっと甘めのソースが後を引く、たまらない美味しさだ。


「絃さん、そんなにすぐ食べたら熱いでしょう?」


 ほふほふしている絃を見ながら、編集長が訊ねてくる。


「……そういえば、編集長は、猫舌でしたね」


 編集長は困ったようにほんの少し眉毛を下げてから、ツンツンと大根の先を箸でつついた。


「うらやましいですよ、熱いうちに食べられて。僕もチャレンジしようかな」

「火傷したら、つぶ貝で冷やすことをお勧めします」


 しかし編集長は大根の唐揚げには手を出さず、ピリ辛こんにゃくとつぶ貝に箸を伸ばした。


「やっぱり、いい塩梅になってから食べます。危険そうなので」

「無理はしないほうがいいですね」


 大根が冷める頃になってから、編集長が唐揚げに手を伸ばした。その頃絃はすでに、大根のほとんどを食べ終わっていた。


 大根に舌鼓を打っていた編集長が口を開いた。


「柿のグラタンも美味しいんですよ。お肉と柿も、すごく相性がいいんですよね。クリームソースとも抜群に絡まって……つまり、柿は果物というよりもメインの食材として使ってもいいという証明ですよね」

「そんな食べかたがあるんですね。私は、わさびと醤油でもう十分美味しいのですが、それは試してみたいです」

「柿をメインに……そうだ、絃さん。法隆寺へ行きましょう」

「はい?」


 突拍子のない誘い文句に、絃は熱燗の杯に口をつけるのをやめると、怪訝な顔で編集長をじっとり見てしまった。


 訳のわかっていない絃とは対照的に、編集長は嬉しそうにうなずきながら、こんにゃくを咀嚼している。


 それを飲み込んでから、携帯電話を取り出す。


「今度のお休み、法隆寺まで。またお迎えに参ります」

「……はあ」

「ほら、言うじゃないですか。柿くへば、鐘が鳴るなり……」

「法隆寺。そうですね。柿を食べていますからね、今の私たちは。鐘の音はここまで聞こえませんけど」


 素直にお出かけが嬉しいとは言えず、絃はもごもごしてしまう。しかし、編集長の次の言葉を聞くと、しっかり頷いてしまっていた。


「柿の葉寿司に柿ソフト。あとは、法隆寺名物と言えば竜田揚げ。一緒に食べましょう。グルメ尽くしです」


 グルメ尽くしとは、行かないわけがない。絃もポケットから携帯電話を取り出してスケジュールを確認する。


「月曜日なら行けそうです。私、二連休です」

「では月曜日に」

「編集長は、大丈夫なんですか? 急に休みをとったりして」

「大丈夫ですよ。一山越えましたので」


 本人がそう言うのならなら大丈夫だろう。


 予定を記入し終えてから、これはまたもやデートではないかと、一瞬ドキッとする。そう思ってしまうと、途端に心臓がバクバクしてしまった。


 これだから、恋愛などというものに向いていないのだ、とため息とともにおしぼりをこめかみに当てて頭を冷やす。


「絃さんとデートです」


 ずばり言われてしまい、絃は口を曲げた。


「え? 僕とデートは嫌でしたか?」

「……いえ、そういうわけでは…………」


「良かった。びっくりしましたよ、怖い顔するから」


 編集長が変なことを言うから、と言いかけてやめた。冷静になってみれば、特に変なことを言ったわけではないはずだ。


「楽しみにしていますね、月曜日」


 編集長は言葉通り、にっこり笑顔だ。絃はグッと言葉をのみこんだ。


「再びの、デートです」


 ひとりごとか、絃に向かってなのかわからない声量で編集長がつぶやく。絃は聞こえなかったことにした。そうでないと、頬が熱くなってしまいそうだ。


 絃はつぶ貝を口に入れて、クールダウンしてみる。コリコリとしたそれを噛みしめてから、ぬるくなってしまったお酒を喉奥に流し込んだ。

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