第37話
「なんだか私も、やっと生き返りました」
「生き返りついでに、出汁巻きもいただきます……うん、うん!」
出汁のきいた卵の厚焼きは、箸休めにちょうどいい。
さらに、大根おろしと醤油があれば、これだけでごちそうだと言える。
ふわふわだけれど、しっかりと巻かれた重量感のある厚焼きに、たっぷりのおろしを上に乗せる。
醤油をひとたれ回して完成だ。口に入れると、卵の甘みとおろしのじゅんわりとした汁気で口の中が満たされる。美味しい以外に感想はいらない。
「編集長。お酒、おかわりいりますか?」
編集長はどうしようか、と首をかしげた。
うーんと唸っていると、外から雨音が聞こえてきて、思わず顔を見合わせた。
ぐつぐつと土鍋が煮える音以外に、ざあざあと雨粒が大地に滲みこむ音が耳に届く。
「やっぱり降ってきましたね。もう少しこちらに長居してもいいでしょうか?」
「もちろん。せっかくですから飲みましょう」
「……今夜は深酒になりそうですね」
ぽつりとつぶやく編集長の声が、雨音に馴染んで消えた。
絃は立ち上がると、燗をもう一度作り始める。台所の横にある小窓から外の様子を見ると、ずいぶん本降りの雨のようだ。
絃が燗を持って居間へ行くと、編集長の眼鏡は机の横に置かれていた。
疲れたのか彼は目頭を押さえて、じっとしている。絃が戻ってきたことに気がつくと、嬉しそうにほころんだ。
眼鏡がないと紳士感が薄れ、だいぶ幼く見える。若いというより、全体が子どものような雰囲気だ。
お互い手酌をしながら、ぽつぽつしゃべりながら豆腐やらネギやらをつまむ。
人は本当に満足すると、言葉数が少なくなるのかもしれない。
あんなにたくさん話したいことがあったのに、編集長の顔を見て、美味しいネギを食べたら、言葉はどこかへ行ってしまっていた。
「……雨、やみそうにないですね」
編集長が帰るとき、このままの勢いだとだと困ってしまうだろう。それくらい、雨脚は強いままだ。
「遣らずの雨、ですね」
「なんですか、それは?」
「尋ねてきた人を、帰させないぞと引きとめる雨のことです」
なるほど、と絃は窓の外に耳を澄ませる。
「帰りにくいというか、濡れるのも嫌だし帰るのも億劫になるというか……」
「――僕は帰りたくないです、まだ」
だから、雨が降ってくれて嬉しい。編集長はかすれた声でつぶやくと、湯飲みに入っているお酒をくゆらせた。
「雨は好きではないけれど……」
そうつけ加えた部分は、さらにかすれて聞き取りにくい。絃の耳にやっと届くほどだ。こほんと一息つくと、編集長は湯飲みから顔を上げた。
「やみませんね、雨」
困っているのに、楽しんでいるような顔が見える。絃はうん、と頷いた。
「ええ、まだ降りそうですね」
絃は窓の外の様子を、心配そうに見つめた。そんな絃を見つめながら、編集長が唇を小さく開けた。
「……このまま、もう少し降っていてくれてもいいですけれどね……」
「ん? 今なにか言いましたか?」
「いいえ。それより絃さん、もう一回乾杯しましょう」
絃は首をかしげつつも、編集長が差し出してきた湯飲みに、自分の湯飲みを合わせた。
編集長は冷めてしまった一本焼きを、美味しそうにもぐもぐし始める。
雨は、まだやむ気配はない。
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