第36話

「なんですか、そちらは」

「長ネギの一本焼きです。塩コショウもいいんですが、今夜はおろし生姜と醤油にしようかなと」


 包み焼いたホイルを開けると、白い湯気がもわんと出てくる。編集長が興味深そうに覗き込み、鎮座する長ネギに顔をほころばせた。


「一本じゃ足りなそうだったから、三本焼きなんですけどね」

「幸せすぎて、声になりません」


 二人の笑い声が小さく漏れた。


「実はこの家にはおちょこがないんです。なので晩酌は湯呑です。色気がないと言われれば、そんなもの猿沢池に捨てたと答えたいところです」

「湯呑で飲むなんて、なんとも素敵です。あっぱれです」


 温めてきたとっくりを傾けて、湯呑になみなみとつぐ。


 飲み屋ではできないだろう、宅飲みだけの贅沢だ。乾杯、と湯飲みを合わせてから口元に運ぶ。疲れ切った身体に、ぬくぬくのお酒が沁みいっていく。


「……ああ、生き返りました。絃さん、僕これ食べたいです」


 お清めを済ませた編集長は、いつも以上にご機嫌な様子だ。ホイルから覗いている、湯気の立つネギたちをじーっと見つめている。


「どうぞ、熱いうちに」


 ホイルで焼いたネギには、ほんの少し焼き色がついている。それがまた香ばしい匂いを発していて、思わず手が伸びてしまうのだ。


 醤油と生姜の香りがたまらないそれをつつくと、編集長は取り皿に入れてからふうふうとさます。


 そういえば編集長は猫舌だったなと思い出しながら、絃は彼より先にネギを口に入れた。


 噛んだ瞬間、とろり、と甘くて柔らかな身が溢れ出した。


 それは、ネギが甘いことを、この料理以外で知ることはできないとさえ思うほど。


 しんなりとしたネギから、やわらかな甘みがじんわりと口の中にやって来る。舌の上をとろりと伝い、香ばしい香りが鼻に抜けていく。噛めば噛むほど、うまみがにじり出してきた。


 編集長ももぐもぐしながら、黙ってうなずいている。よほど美味しかったのか、飲み込むとすぐにもう一切れを口に入れて、満足そうにほほ笑んだ。


「レモンをかけても美味しいんですよ。簡単だし、ちょうどいいと思いません?」

「最高ですね、絃さん。これはお酒がすすみます」

「湯豆腐もどうぞ」


 絃は珍しく鍋の中の鱈と豆腐をすくい上げ、編集長に渡した。


 受け取ってから、いつものように美しい仕草で編集長は食べ始める。


「うん。鱈がほくほくで噛み応えがありますね。なんでこう感触がいいんでしょう、鱈って。春菊の香りもたまりません。僕も鍋に一緒に入りたい」


「疲れていた様子でしたから、老婆心ながら良質なたんぱく質をご用意させてもらいました」


「あはは、大当たりです。忙しくって、生きることを忘れていました。ああ、いいですね、絹ごしの湯豆腐は。掬いにくいですけど、くちどけが良くて」


 喉を、熱くて柔らかいものが通り過ぎていく湯豆腐の感覚が好きだ。


 特に絹ごしの豆腐は、アツアツのままつるんと喉を通り抜ける。それがまた、たまらなくてやめられない。


「絃さん。ありがとうございます。僕は死んでいたも同然でした。今やっと心臓が動いて、身体と心があって、美味しいものを食べられる幸せを感じられて、生きているという実感が湧いています。ついさっきまで、ほとんど屍だったのに」


 湯豆腐を眺めながら、編集長はほっこりと、甘ったるくかすれる声で話し始める。


 絃は、久々に聞く彼の声に耳をかたむけながら、真っ白な豆腐と、鱈、美しい色の春菊を見つめる。


 そういえば、この人は真白というのだった。


 豆腐や、この鱈のような白さを連想させる名前。


 絃は真っ白な豆腐を箸の先で崩すと、鰹節をたっぷり絡ませて茶色にしてから口へ放り込んだ。

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