第35話
百個は言いたいことを用意したはずなのに、文句は玄関のチャイムの音とともに消えていってしまった。
編集長が絃の自宅にやってきたのは、夜の十九時を十分ほど過ぎた時だ。
「……遅刻です」
十分の遅刻にモヤモヤした自分が許せなくて、編集長に八つ当たりをしてしまう。
「申し訳ないです」
編集長はちょっとだけすまなそうにすると、玄関先で絃の手を握った。彼の手には、先日購入した一升瓶が握られている。
料理をしていた絃の手は温かく、寒空の下急いでやってきた編集長の手のほうが冷たかった。
「こんばんは、絃さん」
掠れたような声で言われて、力んでいたものがしゅるんと抜けてしまった。彼に会いたかったんだとわかってしまうと、なんとも複雑な感じだ。
「こんばんは、編集長」
無性に編集長の手が恋しくなった。
なんだこの感情は、まるで恋心じゃないかと絃は眉間にしわを寄せる。
握られた手の奥から編集長のぬくもりを感じると、絃はほっとすると同時にどうしようもなく泣きたくなっていた。
「あがってください」
「お邪魔します。絃さん、外はすごく寒いですよ。雨が降ってきそうです」
「居間を暖かくしてあります」
編集長の纏う空気が、いつも以上に穏やかになる。
かすれた甘ったるい声が聞きたい。そう思って見つめると、眼鏡の奥の柔らかな視線が絃に向けられていた。
「会いたかったです、絃さん」
不意打ちすぎる笑顔に、絃は思わずはにかんでしまった。
「私も会えて良かったです。こちらへどうぞ、寒いですから」
絃が家に家族以外の人間を招いたのは、編集長が初めてだ。野良猫やヒヨドリ、ツグミなんかは庭に勝手にやってくるが、人間は今までない。
編集長を居間に案内し、冷え切った彼の身体をおこたに押し入れた。
「わあ、あったかいです。外がものすごく寒かったので、生き返りますね」
お手伝いしますよと言われたのだが、絃は丁寧に断った。持ってきてくれていたお酒をもらい受け、キッチンでぬる燗の準備をする。
納戸にしまい込んでいた自分の一升瓶を持ってくると、やっと出番だと言わんばかりに酒瓶がつやつやと光って見えた。
「待たせてごめんね。やっと今夜、あなたを飲んであげられる」
一升瓶に話しかけてから、絃はカセットコンロを持っておこたへ向かった。
編集長は上半身を卓上にでろんと伸ばして、まるで猫のようにだれていた。相当疲れているのだろう。
そんな姿を見るのは初めてで、あまりの珍しさに写真に収めようか迷う。しかし、撮影するのをやめて湯豆腐の準備をすすめた。
「ずいぶん忙しかったみたいですね」
「寿命が擦り切れるかと思いました」
台所から話しかけると、想像以上の答えが返ってきた。驚きつつ編集長のほうを見ると、ふにゃっとした笑顔が見える。
「……僕は、絃さんと一緒にぬるめの命の水が飲みたいです。じゃないと死んでしまいます」
「命の水をつくっていますから、死ぬのはもう少し待ってください」
言いながら、絃は鍋を持っていく。のたのたとした動作で編集長は起き上がって、目を輝かせた。
「お豆腐と鱈、春菊とネギ入りの湯豆腐です」
さらに大根おろしをこんもりと乗せた出汁巻きを出すと、編集長の表情が緩む。
「もうこれだけでもじゅうぶんですが、先ほどから気になる香ばしい匂いが……」
「もうちょっと待っていてください。多分、編集長の好きなものですよ」
熱燗とぬる燗を持っておこたに向かう絃の手には、香ばしい匂いをさせた一皿があった。
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