第32話

「目上の人の言葉は、心に沁みますね」

「沁みていない顔をしていますけどね。絃さん、お蕎麦美味しかったですか?」


 ぽっくりと月が出ていて、流れる雲が光をまだらにしていた。


「美味しかったです。また食べたいです」

「それは本心ですか? それとも天邪鬼な言いかたですか?」


 彼の瞳は、やんわりと緩んでいる。


「本心です。その……すみません、性格とか言いかたが悪くて。編集長とまた一緒に食べたいというのは本当です」

「性格悪いなんて思っていないです。いいですよ、そのくらいが可愛いです」


 気に入ってくれたのなら嬉しいと言いながら、編集長の指が絡んでくる。

 温かさがさらに増して、汗をかくくらいに熱を持った。


 日本中の蕎麦を食べ歩くのもいいだとか、うどんは関西のほうが美味しいだとか、編集長はまたもや蕎麦のうんちくを話し始めた。


 そんなコシのない伸び伸びした話をしていたら、家の近くについてしまった。


 手を離すのが切ない。


 今はこんなにあたたまっているのに、きっと冷気ですぐに冷めてしまう。編集長が、なかなか動かない絃を覗き込んで心配そうにした。


「どうしました?」

「編集長。今日買ったお酒、やっぱり一緒に飲みたいです。今度、一緒に」

「はい。一緒に飲みましょう」


 笑顔の返事が聞けて、ほっとしたところで絃はゆっくり手を離した。ちょっとドキドキしたのだが、今しかないと思った。


「私の家でどうでしょうか? おこたがあります。ミカンもあります。つまみは少々、作れます」


 それから畳があります、と付け加える。編集長は驚いたような顔をしたあと、うんうんと頷いた。


「では、明日。計画を立てましょう」


 紺暖簾のお店で、また彼に会える。絃はほっと胸をなでおろした。


「おやすみなさい、編集長」

「おやすみなさい、絃さん」


 編集長とわかれると、絃は自宅に歩いて戻った。


 自分から家に誘うなんて、絃自身がびっくりしている。でも、後悔はしていなかった。むしろ楽しみだと思うのは、そういうことなのかもしれない。


 湯を沸かして入ろう。今すぐ全身を、彼に握られた手の温度と同じにしてしまおう。


 絃はぐーぱーと手を握る。いまだに温かい手のひらは、すぐには冷えなさそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る