第六章 ネギの一本焼きと遣らずの雨
第33話
編集長と、ここしばらく顔を合わせていない。
年末にかけて忙しいのだろう。
蕎麦を食べにいき、紺暖簾で予定を立てようとしたものの、結局その日は予定をたてずに飲んだくれて別れてしまった。
それきり、二週間近く顔を見ていない。
蕎麦を二人で食べに行った時に購入した一升瓶は、キッチンの隅の涼しいところに置かれたままになっている。
それを見るたびに、絃はなぜか心もとなくてしょんぼりしてしまう。
じっと一升瓶を見てから大きく息を吐く。目の届く範囲に置いておくのが嫌で、納戸にしまい込むことにした。
「……はあ」
編集長と会えないことに、モヤモヤしている。
彼は錨のない船のようだ。ふうらふうらと、どこかへ行ってしまったら最後、絃の前に二度と現れないような気がしてやけに切ない。
こんなに心許なくなるのなら、そもそも過度な付き合いなどしなければよかったのに。だが、今さら遅い話だ。
そろそろ本格的に冬が押し寄せて来ている。燗をつけたとっくりだけだと、寒さが増す夜を越せなくなってしまいそうだ。
握られた手はあんなに温かかったのに、会わないだけでこんなに冷え切るとは。
「気になっているなら、会いにいけばいいのに情けない」
事務所に見にいけば、きっと難なく会える。連絡をすれば絶対に返事が来る。
だけど、それができないまま毎日だけが過ぎていってしまう。考えないようにすればするほど、思考が押しつぶされそうになる。
仕事をしていれば気がまぎれるのに、一人になると途端に胸が痛くなるのだから厄介だ。
この気持ちを、なんと呼ぶか……絃はとっくにわかっていた。だから、怖い。編集長に拒絶されることを、心のどこかで恐れている。
編集長に心を焦がしてしまったんだろう。恋なんて、してもしなくても変わらないくらいに考えていたはずなのに。
編集長が悪いのだ。
何度も一緒にお酒を飲んだからいけないのだ。酒と肴の趣味が合うのが悪いのだ。
けれど、嫌いになろうとしても、嫌いになる理由が見当たらない。
「はあ……」
絃は一升瓶をしまい込むと、納戸の扉をゆっくり閉めた。
しっかり眠りについたはずなのに、寝たら忘れると思ったのに、モヤモヤは消えてくれないまま翌日がやってきた。
絃がその日観光案内をしたのは、カナダから来たという老夫婦二人だ。
美しい美しいとしきりにあちこち眺め、野生の鹿がこんなにも近くにいることに感激し、鹿せんべいを瞬殺されて笑い転げている。
大変ほほえましい夫婦だ。見ていても話をしていても心地が好かった。
こんな風に歳を重ねられたら素敵だ。素直にそう思える二人の姿に、絃はほっとするのと同時にそわそわしてしまった。
家族というものが、平たく言えば絃には難しく感じる。
結婚はまだしないの? と問われれば、曖昧に答えるだけになってしまう。新しい家庭、というイメージが沸かないので、どこか他人事のように感じていた。
書面上で名前を連ねただけで、いきなり血縁関係ですと言われても、きっと実感がわかない。
お互いを縛り付けるような関係に思えて、興味が持てないのだ。
だからといって、恋愛にも無頓着かと言われれば、そういうわけでもない。
厄介な年ごろと性格だと自負していたが、多くの若者が同じように感じていることだろう。
好きな人と一緒に時間を過ごせたらいいとは思う。理想では。しかし、実際にはそれがお互いを縛りつけられるようなものであれば、きっと嫌厭してしまうだろう。
今の生活が壊れるのを、なによりも怖いと感じている。理想と現実の差に耐えられるような自信もない。
きっとそれは、絃だけではないはずだ。
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