第30話
「安酒をどうにかうまく飲めないかと、研究したことがあります。お金も無かったから、安くて満足できてカロリーのある肴はないかと、乞食のようなボロボロの服でスーパーをうろついていた所、目に入ったのがプリンでした」
その姿を想像してみて、絃は「ははっ」と声に出して笑ってしまった。
「そんなボロボロになっても、お酒を飲みたかったんですね」
「僕がお酒をやめる時は、死ぬ時でしょうね」
編集長の一言に、絃は心臓を素手で鷲掴みされたような気持ちになった。
全身をぐわんと、大きい地震によって揺さぶられたような感覚がする。もちろん、酔っているからではない。
「死ぬ時、ですか?」
「はい。なんだかそんな気がします」
編集長と同じことを、絃も思っている。
日本に戻ってきてから、苦しくて忙しくて訳もわからない日々を過ごした。感覚や文化の違いに、日本人でありながら戸惑った場面も多くある。
日本で生活しているうちにそれらのズレは減っていった。けれど、どっちも知っているというのは、どっちつかずになる可能性があるということを思い知ることだ。
迷いが多い毎日だったが、お酒とつまみを食べている時は、なんだか深い呼吸ができる気がしていた。
「私も、死ぬ時のような気がしてきました」
「でしょう? 僕たちは死んだあともきっと酒友ですね」
絃は、救いを酒と肴に求めているのではない。
生きている意味をそれらに見出している。おそらく、編集長も。
頑張ったご褒美に、今日を生きたことに、美味しい食べ物とお酒で一日をしめくくりたい。お清めに近い感覚だ。
お酒がくれる高揚感と、美味しいものが沁みわたる感覚は、絃にとって生きていて良かったと思える強さに変わる。
お酒が古代から神聖なものだったのも、飲んだ時に細胞単位で理解できるような気がしていた。
「美味しいものを食べて、美味しいお酒を飲んで一日を終える。それが、この身体を地球から借りている僕なりの、毎日の労いと感謝の方法です」
聞いているだけで、胸が張り裂けそうなくらい切なくなる。編集長のお酒の飲みかたに、こんな哲学が隠れているとは思いもしなかった。
「借りている身体への感謝の気持ち……たしかにそう思えば、飲みすぎもなくなりますね」
「適量がいいんですよ、なんでも」
急に涙が出そうになって、絃は慌ててコーラ割りをあおった。
「おかわりいかがですか?」
「ください」
編集長が二杯目を作ってくれて、絃は中身をじーっと見つめた。
「甘ったるいんですけど、やめられないんです。お酒にはごめんねと思う気持ちもあります。でもこれが妙にタマラナク美味しいのです」
「これは罪深い飲み物ですよ。編集長は、地獄に落ちます」
絃の返しに、編集長は満足そうにうなずいて笑った。
「旅は道連れ世は情け。飲んだら最後、僕と一緒に地獄行き。絃さんも地獄に落ちちゃいますね、これじゃあ」
歌でも歌うように楽しそうなリズムで紡がれた言葉に、絃はふふふと笑った。
「昼間、絃さんとあんなに美味しいお蕎麦を食べたのがいけなかった。分相応という言葉を忘れるところでしたから、これでちょうど良いのです」
編集長は穏やかな様子だ。
「さしずめこれは、地獄割りとでも名付けましょうか。どうです絃さん、なかなかのネーミングセンスだと思いませんか?」
「これを飲んだら地獄行きですか。閻魔様もびっくり仰天ですね」
閻魔様ってそういえば……と話がそれたので、絃はうんちく雑学を聞きながらプリンをパクパク口に入れる。
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