第28話

「残念ですけどね。取材だってごり押ししても良かったんですが……そういうのをズルと言いますから」

「来年行きませんか? もし良かったら、一緒に」


 気づいたら、絃のほうから誘っていた。自分一人では来ようと思わないが、編集長とならまた一緒に来たかった。


「いいですね。では来年、受付が始まったらすぐに予約をします」


 ……一緒に、来年。

 まるで恋人みたいではないか、これでは。


「あ、あの……もしさわりがあるようでしたら、私とじゃなくてもいいです」


 遠回しに、編集長に恋人ができたら、自分は引っ込むと伝えたつもりだ。それは十分伝わったようだ。


「大丈夫ですよ。絃さんと絶対に来ます」

「楽しみにしています」


 偽りのない本音が漏れる。口元が緩んでしまい、絃は慌てて咳きこむふりをした。

 ちらっと編集長を見ると、彼の口元のほくろが絃をからかうように笑っているように見える。


 試飲で酔っぱらうわけがないのだが、もしかしたら酔っているのかもしれない。

 なんだか腹が立ったので、編集長のほくろを指先で軽く押しつぶした。


「……絃さん、僕、運転中です」

「知っています。なんだか、憎らしくなって」

「天邪鬼な貴女から、そんなことを言われるとは。最上級の誉め言葉ですね」

「天邪鬼じゃないです」

「絃さんは、天邪鬼です」


 確信的に言われ、絃は拗ねながら背もたれにどっぷしと自身を預けた。


「そうですよ、天邪鬼です」

「そのあたりは素直でよろしいですね。可愛いです」


 最後の一言に、絃はぎょっとして視線を窓の外にずらした。


 相変わらずラジオからは、古い洋楽が聞こえてきている。まだまだお腹がいっぱいで、晩ご飯は食べられそうにない。



 *



 朝に待ち合わせた場所と同じところで、編集長とお別れをする予定だった。

 家の近くに着いたのはちょうど夕暮れ時、カラスがかあかあ鳴きながら巣へ帰る時刻だ。冬だから、日は短い。もうあと少しすると、真っ暗になってしまうだろう。


 先ほどまでお腹はいっぱいだったはずなのに、到着した時には小腹が減り、どうしてもお酒が飲みたくなっていた。


 一日中楽しい時間を過ごしたのだから、これ以上彼を引き留めるのは悪い。

 それでも。


「編集長」


 どうしました、といつもの調子で聞かれて、絃は一瞬口ごもった。もう少し一緒に居たいと、ストレートに伝えていいものだろうか。


 ためらっているうちに、信号で車が停車する。視線を投げかけられて、絃は恐る恐る口を開いた。


「小腹が減りました。それと、買ったお酒を飲みたいです」


 編集長はにっこりと口元をほころばせた。


「では事務所へ行きましょうか」

「ご迷惑じゃないですか?」

「どうして?」


 信号が変わったので、編集長はアクセルを踏み始める。


「小腹が減った時に、ちょうどいいものがありますから、一緒に食べましょう」


 びっくりするくらい、自分はちょろいようだ。


「はい! ありがとうございます!」

「気に入るかどうか、わからないですけど……美味しいですよ」


 ちょうどいいものとはなんだろう。きっと、美味しいに違いない。

 内心ワクワクしながら向かった先は、小さなオフィスだ。明かりをつけると、照らされた空間のあちこちに、山積みになった紙の束がある。


「数人で運営しているんです。ほかにも、企業のPR動画を作ったりいろいろやっていますので……散らかっていてすみません」

「急に押し掛けたのは私のほうなので、お気になさらず」

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